聖なる侵入
○サーラ・クリスメントサイド
あれから――下級魔族フィーアを倒してから時間が経過すること丸一日以上。
わたしの魔法力が完全に回復するまでなんて待てない、とニーネちゃんに頼んで作ってもらった『刻の扉』でわたしは弟子――マルツ・デラードが向かった(はずの)地へとやって来ていた――のだけれど……。
「ここ、どこ……?」
本当、ここはどこだろう?
とりあえず近くの建物に入ってみることにしたけど……。
いや、そもそも。
どうして『闇を抱く存在(ダークマター)』の強大な魔力が感じられないのだろう。
まさか、マルツと弱体化したニーナちゃんだけで倒せるとも思えないし……。
……まさか、ね。
う〜ん……。最悪の事態になっていたらどうしよう……。
とりあえず、ここはどの大陸にある街なのか確かめないと。
建物の構造から察するに、ルアード大陸だろうか。それともカータリス大陸? あるいはドルラシア大陸?
エルフィー大陸……ということはないだろう。ここがエルフィー大陸ならもっと緑があるはずだし。
わたしの住んでいた地、リューシャー大陸だということもないだろう。
だって、こんな構造の建物、わたしの住んでいた大陸では見たことないし。
「う〜ん……」
少し考え込んだのち、手近にあった本を手にとって開いてみる。
幸い、それは地図のようだった。もっとも、どの大陸が私の住んでいたところなのかも分からなかったけれど……。
ああ、マルツ。出来の悪い師匠でゴメンね……。
わたしはそんなことを思いつつ、途方に暮れて立ち尽くすのだった。
○式見蛍サイド
思いっきり非日常な存在と対峙し、勝利した翌日の朝。
そこにはなんの変哲もない、普通の日曜の――休日の朝の光景があった。
「ふわぁ……。しかしマルツ、お前もよく食べるよな……」
「当然! 魔法力を回復させる一番ポピュラーな方法は『よく食べ、よく休む』だからね!」
朝も早くからハイテンションにそう告げてきたのは、同居している浮遊霊のユウ――ではなく、同じく同居人(いや、居候か?)のマルツ・デラードだった。今日も緑色の髪が印象的だなぁ……。栗を連想させる髪型をしているものだから、なおさらに。本人、髪形を変える気、ないのかな……?
食パンにバターを塗りながら、そんなことを考える僕。
それにしてもマルツ、食べるのが本当に早い。ユウも負けじと食べるものだから、もしかしたら8枚入りの食パンじゃ足らないかもしれない。
なんとなく会話が途切れる。
僕はあくびをかみ殺すと、リモコンを操作してテレビをつけた。
『――で、42歳くらいの男性のものと思われる遺体が発見されました。遺体は両腕が切断されており――』
テレビの中では、男のキャスターが淡々と物騒なニュースを読みあげていた。しかも現場はここから近いときたもんだ。
そうしたからどうなるってわけでもないけど、すぐにチャンネルを変える僕。
「割と物騒だなぁ、この世界も。まあ、僕の世界はもっと物騒だけど」
得意げに言うマルツ。いや、そこは得意げに言うところじゃないだろう。物騒なことなんて起こらないにこしたことないんだから。
「昨日帰ったら、早速モンスターやら魔族やらと戦うハメになったもんな。いや〜、本当、大変だった」
「いや、それ聞いたから。昨日からもう5回くらい聞いたから」
「でも本当に大変だったんだぞ。魔法力もかなり消費したし。――というわけで、もっとパンをプリーズ!」
「ないよ。お前とユウとで全部食べちゃったよ。僕なんか一枚しか食べてないよ。いまバター塗ってるの含めて二枚しか食べられないよ」
「じゃあそのケイの食パンを僕にプリーズ!」
「イ・ヤ・だ!」
「なんだよ、ケチー。じゃあなにか別のものを――」
「それもないよ! 冷蔵庫ほとんど空なんだよ!」
「ええー! ケイの甲斐性なしー!」
「ユウ! どさくさに紛れて理不尽なこと言うんじゃない!」
……はあはあ。まったく、なんで僕は朝っぱらからこんな大声出してるんだ……。
「とりあえず、そんなわけで今日は買い物しないとな」
「私が言うのもいまさらだけどさ。ケイって所帯じみてるよね〜」
「うるさいな、ユウ。――そんなわけでマルツ。お前、荷物持ち――」
「ごめん。僕、今日はパス。魔法力の回復に努めないと」
「それって要するに、今日は一日ダラダラと過ごすってことだよな!?」
「うん。ケイ正解〜。賞品としてユウとの一日デート権を差し上げま〜す。あ、もちろん買い物ついでに」
「いらないよ! それにお前――」
「ちょっとケイ! いらないってどういうこと!?」
「お前はちょっと黙ってろ! ユウ! 話がまったく進まなくなる!」
「む〜!」
「で、マルツ。お前、『今日はパス』とか言ってるけど、こっちの世界に来てから一度だって荷物持ちなんてしたことないだろ!?」
「うん。魔法力が回復したら荷物持ちデビューすることにするよ。だから今日はユウとの一日デート権、ありがたく受け取っておきなって。そしてそのパン僕に渡しなって」
「誰が渡すか!」
僕は怒鳴ってパンを口の中に放り込んだ。「あ〜!!」と泣きそうな声を洩らすマルツ。……勝利。
僕は「ごちそうさま」と手を合わせると、ささやかな勝利感を胸に食器を片づけ、そのまま買い出しに出かけることにした。
「あ、テレビ見なかったら消しといてくれよ。マルツ」
「……うん。分かった」
素直なものだった。あるいは僕と言い合いしても勝てないと理解したのかもしれない。
「じゃあ、行くぞ」
靴をはきながらユウに声をかける。
彼女がついてくるのを確認すると、僕はアパートを出た。
はて? なにか忘れてるような……。
荷物持ちのことを上手い具合に流されたと気づけたのは、街に繰り出してからのことだった。……しまった。パンに気をとられてたからだ。……やられた。
スーパーで買い物を終えて、ちょっとその辺りのコンビニに入ることにする。そういえばマルツ、以前起こったコンビニ強盗事件のとき、一体どういうとばっちりを食らったのか、コンビニでのバイトをクビになっていた。……気の滅入る話だ。家計も圧迫するし。……はぁ、死にてぇ。
ちなみに荷物は全部僕が持っている。……いや、だって、他人から見えないユウが持っていたら、荷物が宙を浮いているように見えるだろうし、そもそも僕自身が女の子に荷物を持たせることに居心地の悪さを感じるタイプだったりするから。……なんて損な性格をしてるんだ、僕。もっとも、そんな自分を嫌いじゃない僕がいるのもまた事実だったりもするのだけれど。
今日売りのマンガや小説がないか、週刊誌コーナーに行ってみる。すると、そこで僕は少々変な人を見るハメになった。
見たところ先輩と同年齢くらいであろう女性が真剣な表情で本を開いていた。つまり、立ち読み。それはいい。僕だって立ち読みくらいはする。その程度で目くじら立てる人間は世の中、そうそういないだろう。
立ちっぱなしで足が痛むのだろうか。ときどきトントンとつま先を鳴らしている。それも別にいい。そんなの変でもなんでもない。
時折、首をかしげる動作に腰まであるロングヘアーや首から下げられている銀色のペンダントが揺れる。それだっておかしくはない。そのたおやかとも表現できる雰囲気に見とれる人間もきっと多いだろう。
「ケイ?」
だからおかしいのはその髪や瞳の色、および服装に他ならなかった。
青である。その瞳が。その髪が。――いや、瞳が青いだけなら『外人さんかな』ですませることも出来ただろう。髪だって、あるいは『染めてるんだろうな』ですませることも出来るのかもしれない。
でも、その髪の色は明らかに自然のものっぽかった。人工的な色合いじゃなかった。普通ならあり得ないとは思うんだけど、マルツの緑色の髪をここのところ毎日見ている僕だから分かる。あの色は生まれつきの色だ。染めたときのどぎつさと違和感がない。
「ねえ、ケイ?」
さらに、だ。あの服はどうだろう。『この世界』では明らかに目立ちすぎる、薄緑色の服。マルツの着ているローブとよく似た、けれどRPG風に言うなら、彼と違って、神聖な職についている人間が身につけていそうな薄緑色のローブ。この外見から推測できることは――
「ちょっと無視しないでよ! ケイ!」
「! 痛たたた……」
ユウに頬をつねられた。はっきり言ってかなり痛い。まったく、もう少し手加減しろよな……。そんなつもりなかったとはいえ、結果的に無視してた僕が悪いのは分かってるけどさ。
「……ふう」
と、そこで目の前の青い女性が嘆息してパタンと本を閉じた。……彼女、僕たちのやりとりにまったく気づいてない?
「あの、ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
おっとりした調子でそう声をかけてくる女性。なんだか、僕と同年代であることを疑いたくなるような無邪気さがあった。うん。アヤといい勝負かもしれない。
奥の深さを感じさせるふわっとしたその瞳を向けられ、僕は少しドギマギしながら返す。
「は、はい……。なんでしょう?」
僕って、色々と尋ねやすい顔してるのかな……。
そんなことを考えている僕に彼女は再び本を開いて見せてくる。
それは地図だった。しかし、世界地図。
「ここって、どこなのかな? それとわたしの住んでいた――リューシャー大陸ってどこにあるんだろう?」
僕が返答に困ったのは言うまでもないだろう。
リューシャー大陸? どこ、そこ?
大体、世界地図広げられて『ここってどこ?』と訊かれてもなぁ……。
う〜ん……。どうも天然っぽいぞ。この人。おそらく陽慈(ようじ)並みだ。
しかし、からかわれているわけではないことは彼女のその表情から分かるため、僕はとりあえず、
「ここは――ここの、この辺りだと思いますけど……」
世界地図の日本のところを指差して、そう言った。曖昧な答え方になってしまったのは、世界地図を見せられたからだ。この地図で関東のどこどこと説明するのは、いくらなんでも不可能に決まってる。
「え? ここなの? ここってエルフィー大陸じゃ……。でもエルフはこういう建物嫌いだったはず……。――あ、君の耳は尖ってないね。だとすると――」
うん? エルフ? なんだそのRPGでよく出てくるワード。
ああ、この人の正体、もう見当ついてきたぞ。さすがに。
「あ、でも――ここは間違いなくリューシャー大陸だよね?」
少し焦ったように尋ねてくる女性。指はオーストラリアを指している。
「……違います」
とりあえず否定しておいた。
「ええっ!? 違うの!? じゃあ……じゃあ、ここはドルラシア大陸でしょ?」
指されたのはユーラシア大陸だった。語感は似ているけど、違うものは違うので、ちょっと悪いかなと思いつつも首を横に振る僕。
彼女はとうとう絶望的な表情になって、床に崩れ落ちた。なんだか、こっちが悪者になった気分。……理不尽だ。死にてぇ。
今度は僕のほうから質問する。
「あの、あなたはもしかして『蒼き惑星(ラズライト)』から来たんじゃないですか?」
うなだれるようにうなずく青い女性。う〜ん。やっぱりそうか。
だとすると――。
僕はユウを指して続ける。
「彼女、幽霊なんですけど、見えます? マルツ――『蒼き惑星(ラズライト)』から来たっていう僕の知り合いには見えてたんですけど」
僕の言葉に顔を上げ、ユウを直視する彼女。その瞳は涙で少し潤んでいた。……『守ってあげたい』と思わせる表情だ。かくいう僕もなんの気の迷いか、一瞬そう思ってしまったし。
実は、マルツはたまたま霊視能力を持っていただけ、という可能性も僕は考えていた。だから彼女に見えなかったとしても、それはそれで別におかしなことではない。
むしろ、僕が危惧していることはまた別にあって。なにしろマルツが以前、ユウのことをアンデッドモンスターだと思って過剰に反応したことがあったから、この女性もそういった反応を返すんじゃないかと。
しかし僕のそんな心配は杞憂(きゆう)に終わってくれた。マルツの反応が過剰だったのか、はたまた彼女の危機感が薄いのかは分からないけど、彼女はただ平然と返してくる。
「見えるよ。もちろん」
途端、ユウの顔がパッと輝く。比喩ではなく、本当に。まるで裸電球の如く。
「本当に!?」
まあコイツ、基本、明るくはあるけど、心には常に寂しさがあるようだから、この反応も分からなくはない。
僕がなぜか穏やかな気持ちになっていると、「あっ!」と女性がなにかに気づいたように声をあげた。
「君、『マルツ』って言ったよね? もしかして『マルツ・デラード』のこと!?」
「え? ええ――っていうか、気づくの遅っ!」
思わずツッコミを入れる僕。……ああ、やっぱりこの人、天然だ……。
呆れると同時に、しかし、ちょっと驚きでもあった。彼女、まさかマルツの知り合いだったなんて。偶然の一言で片づけていいものか少し迷う。
「よかったぁ……。ちゃんとマルツがいるところに来てたんだぁ……」
安堵の息を吐きながら立ち上がる女性。……よかった。やっと立ってくれたよ。けっこう痛かったんだよね、周りの視線。
「あ、自己紹介がまだだったね。わたしはサーラ。サーラ・クリスメント。――これでもマルツの師匠なんだよ」
『師匠っ!?』
本棚に立てかけてあった杖(らしきもの)を手にしつつ、にっこり笑ってそう言った彼女――サーラさんに、僕とユウは驚愕の声をあげてしまっていた。
いや、確かに師匠がいるとマルツから聞いてはいたし、弟子がいればたとえ何歳であろうと師匠は師匠だろうけど……いくらなんでも若すぎるんじゃあ……。
僕とユウはあまりのショックに口をポカンと開けてしばらく固まってしまったのだった。
○神無鈴音サイド
昨日知り合った記憶喪失の少女との朝食を終えて、私は彼女と部屋に戻った。
食事中、思い出せることはないものかと彼女と色々会話をしてみたのだけれど、それで思い出せたことは、なにひとつなかった。とりあえず、昨日出会ったときに比べてだいぶ打ち解けることが出来たのが収穫といえば収穫だろうか。
部屋に入ってすぐのところにある鏡に私たちの姿が映る。肩にかかるくらいまでの髪の私と、背中まである彼女の黒髪。
どうしたって私は自分と彼女の容姿を比べてしまう。
彼女がいま着ているのは黒髪や黒い瞳とは正反対の色の、白いワンピース。ちょっと変わったデザインをしてはいるけれど、それで彼女の魅力が損なわれるということもない。黒と白の見事なコントラスト。そういえば黒は女を美しく見せる、という言葉を聞いたことがある。いや、あれは黒い服は、だったっけ。事実、私の目に彼女は美しく見えるのだから、どちらでもいいような気がしてきた。
私は――どうだろう。別にブサイクとまで自分を卑下はしないけれど、だからといって可愛いとか美しいとかいう形容詞が似合うかどうかは……。まあ、私は別に容姿がすべてと思っているわけでもないけれど。《顔剥ぎ》のこともあったし。
蛍が『可愛いよ』とか冗談混じりでなく言ってくれたら少しは自信、持てる気もするんだけれど。彼は基本、お世辞を言うタイプじゃないし。こと、私に対しては。
「それで鈴音。私の名前のことだけど」
少女の言葉で現実に意識を向ける私。
そういえば食事中、呼び名がないと不便だ、みたいなことを話していたっけ。
「う〜ん。そうだよね。なにか考えないとね」
とは言ってもどんな名前にしたものか……。電話帳でも開いてみようかな?
しかしそんな適当なのはどうだろう、などと思っていると、彼女のほうから話を続けてきた。
「一般的な名前ってどういうのがあるの? 鈴音?」
「一般的? う〜ん……」
あいにく、どんな名前が一般的で、どんな名前がそうでないのか、私にはなんとも言えなかった。考えてみれば、鈴音という名前は一般的なのだろうか?
それに彼女には名前だけじゃなく苗字だって必要だ。私の姉や妹ということにしない限り、『神無』姓は名乗れないだろう。ちなみに私には神無深螺(かんな しんら)という姉がいる。なのでこれ以上姉が増えるのはちょっと勘弁だった。
「○藤とか○崎というのが苗字には多いけど、名前……名前ねえ……」
ぜんぜん思いつかないよ……。やっぱり電話帳から採ってくるのが一番かなぁ。
「○崎が多いんだ……。じゃあ例えば、『神崎(かんざき)』とかはどう? それとも、そんな苗字ないかな……?」
『神崎』か。悪くないと思う。
「いいと思うけど、名前との組み合わせってものもあるから。名前によっては変な苗字に思えちゃうかもしれないよ?」
「名前はもうなんとなく決めてあったの。――名前は『りん』。私は今日から『神崎りん』。……どうかな? 一般的?」
一般的かどうかはやはり分からない。しかし――。
「それは分からないけど、いい名前だとは思うよ。うん」
「よし、じゃあ決まり。私はりん。神崎りん。――改めてよろしくね。鈴音」
う〜ん。もう少し考えてみたほうがよかったんじゃ……。まあ、本人が満足ならそれが一番だとも思うけど。
「うん。よろしく。――でも意外とあっさり決まったね。てっきりもっと時間がかかるかと……。ところでその『神崎りん』って、どこから出てきたの?」
そう訊くと、彼女――りんはイタズラが成功した子供のように笑った。
「鈴音の苗字と名前から採ったんだよ。『神無』の『神』に崎をつけて『神崎』、そして『鈴音』の『鈴(りん)』を採って『りん』」
「……あ、なるほどね」
なんだか、最初からこの展開を狙っていた気さえする。勘ぐりすぎかな?
それから私たちは、しばし雑談に興じた。りんがいまの流行とかを知っているわけないけど、私もそういうことには少々疎いし、内容がどんなものであれ、素直に、自然体で話すりんとしゃべっているのが単純に楽しかった。そういえばこの感覚って、蛍と話しているときと似ているかもしれない。特に共通の趣味に没頭しているわけでもなく、気がものすごく合うというわけでもないのに、話していてとても楽しい。居心地がすごくいい。その感覚はやはり、いま感じている感覚と同じ、あるいはとても近いものだった。まあ、もちろん異性と同性という違いはあるけどね。
時計の長針が一回転くらいしたころだろうか。ふと、私はりんの着ている白いワンピースにかすかな汚れを見つけた。そして気づく。
「りん。それ以外の服って、持ってないよね?」
「え? うん。たぶん」
よほど疲れていたのか、昨日の夜は着替えることはおろか、お風呂にも入らないで寝ちゃったもんなぁ、彼女。というか、家に入ってすぐバッタリ倒れちゃって、目を覚ましたのが今日の朝だったし。
「じゃあせめて服だけでも買いに行こう。その服だって洗濯しないといけないし」
私の服だと胸の辺りが窮屈(きゅうくつ)そうだし、とは言わないでおく。
「さ、行こう」
私はりんの手をとって立ちあがった。
……あ、その前に着替えないと。
買い物はすんなりと終わった。というのも、りんがまったく自分の意見を挟まなかったからだ。
実は、このことを私はちょっと怪訝に思った。
いくら記憶喪失でも、自分の服の好みまで忘れるだろうか。一般常識を覚えているのと同様に、自分の性格や好みというものはそうそう忘れはしないだろう。ユウさんがいい例だ。
なのに彼女、服はもちろんのこと、お店そのものまで珍しそうに眺めていた。まるで、初めて見るものであるかのように。
――まあ、深く考えることでもないとは思うけど。
そしていま、私たちは近くの喫茶店に向かっているところだった。買い物はひと段落ついたから、ちょっと休もうと私のほうから提案したのだ。
「喫茶店かぁ。喫茶店ってどういうところ?」
私からしてみれば、あまりにいまさらな質問だったので、思わず考え込む。そういう知っていて当然なことを訊かれるとかえって説明しづらいなぁ。
「ん〜。軽くなにか食べて、お茶飲んで、ゆっくりするところ、かなぁ。――あ、人と会ったり話したりするときにも行くことあるわよ」
「へぇ。なんか家にいるときと変わらないね」
「…………」
ぜんぜん違うと思うけどな……。上手く説明する自信ないから、あえて突っ込まないけど。
喫茶店の前に到着する。そして、私はそこで喫茶店に入ろうという自分の発言をすごく後悔することになった。
なぜなら、窓から蛍とユウさんがいるのが見えたから。別にそれだけならいい。いや、よくはないけど、別にそこまで糾弾する光景ではない。
喫茶店にいたのは蛍とユウさんだけではなかった。蛍の向かいに見知らぬ青い髪の女性が座っている。それもかなりの美少女。年齢は真儀瑠先輩と同じくらい、つまり17〜19くらいだろう。『美人』というより『可愛い』という言葉が似合うタイプだ。
ユウさんが怒っていないことが不可解といえば不可解だったけれど、いまの私にそんな些細なことを気にする余裕はなかった。蛍たちを見つけた瞬間からそんな余裕、なくなっていた。
「りん。喫茶店に入るとき、少しの間静かにしててね」
りんがうなずくのを確認すると、私は窓から見えないように少し身を屈め、喫茶店の入り口まで走っていった――。
○同時刻 『蒼き惑星(ラズライト)』
「ん……」
魔道学会カノン・シティ支部にある一室で。
「ふあぁ〜。よく寝た〜」
ファルカス・ラック・アトールはのんきにあくびを洩らしてベッドから起きあがった。
緊張感がないことこの上ない表情だった。シリウス・フィッツマイヤーといい勝負かもしれない。
しかし、『よく寝た』とはいえ、窓から差し込んでくる太陽の光の角度の変化から推測するに、おそらくサーラの出発を見送ってから2時間と経っていないだろう。
それでも、緊張感を完全に解いて眠ることの出来る時間は貴重だった。
フィーアと戦った際の消耗が激しかったのだから、なおのこと。
「サーラのヤツ、ちゃんとやれてるかな……」
当然だが、『闇を抱く存在(ダークマター)』と戦おうとしているサーラとマルツのことが心配でないといえば嘘になる。しかし、ファルカスは心配する以上にサーラを信頼していた。だから自分は身体を休め、回復させることに専念していたのだ。
しばしベッドの上でボンヤリしていると、外からなにやら声が聞こえた。
「――まさか……」
モンスターの襲撃だろうか、とファルカスは一瞬身を固くしたものの、しかし、それにしては少し妙だった。
なんというか、混乱しているようではあるが、命の危険を感じている声ではないのだ。
怪訝に思い、部屋を出るファルカス。
「――やあ」
廊下で温厚そうな中年がこちらに向かって手を振り、声をかけてきた。マルツの父、ブライツ・デラードである。
彼はこの魔道学会カノン・シティ支部の副会長であると同時に、腕のいい魔法医でもある。ファルカスもよく世話になっていた。
「ファルカス君。もう起きて大丈夫なのかい?」
ファルカスはつい反射的に顔をしかめる。街道を壊した件で散々叱られたのだ。
「まあ、ケガは完治してたからな。ただダルかっただけで。それより外で一体なにが――」
ファルカスの言葉は途中でブライツに遮られる。
「なんともおかしなことが起こってるよ。みんな、パニックに陥ってる」
「?」
わけが分からず首をかしげるファルカス。
「とにかく、外に出て自分で見てみたほうがいい。あれを言葉で説明するのは難しいから……」
「――? ああ、分かった」
芸のない返事をして彼は外への扉へと急いだ。その背にブライツの冗談混じりの言葉がかけられる。
「あれを見て君までパニックを起こさないでくれよ。それと、廊下は静かに!」
もちろんファルカスは走るのをやめはしなかった。
皆が空を見上げている。ファルカスもそれにならうように空に視線をやった。
そして――彼は異常に気づいた。
「――なんだ……? あの大陸は……」
空には大陸が浮かんでいた。まるで水面(みなも)に映った虚像のような、いくつもの巨大な大陸。いまにも落ちてくるのでは、とさえ思える。
ファルカスを初めとする『蒼き惑星(ラズライト)』の人間たちには分かるはずもなかったが、その大陸は、地球にある大陸そのままだった。
「……おい。一体なにが起こったっていうんだ……?」
呆然と――。
自分でも意識せずに――。
ファルカスは空に向かって、そんな言葉を呟いていた――。
――『第一章 自分の意味は』―― 開幕
――――作者のコメント(自己弁護?)
第一話を書いていた当時、この物語はマルツが自分の世界に帰って『はい、終わり』というお話でした。
しかし、第二話以降の話を考えてみたとき、それではなんだか物足りなく感じ、『暗躍する『魔風神官(プリースト)』シルフィードをなんとかする』というストーリーに変えました。
けれど、そのとき考えたこの物語のラストは、なんだか(世界の歪みを直す方法などが)尻切れトンボな感じになっており、その後の展開も考えることにしました。
そしてその結果、マルツがメインの話は『プロローグ 風のはじまる場所』にまとめて、この回から始まる話は起承転結からなる数話を一章とし、章構成でやっていくことにしました。
正直、『マテリアルゴーストいつまでもあなたのそばに〜』は、かなり長い物語になると思います。全何話で完結させることができるのか、まったく見当がつきません。僕は一体なんでこんな長丁場になる(と思われる)物語を書こうと思ったのでしょうか。おそらく、せきな先生の作品を読んで、自分でも再び物語を紡ぎたくなったからなのでしょうが、血迷った、という可能性も捨てきれません。
そもそも、僕が初めてせきな先生の作品を読んだのは、2006年1月中旬に発売されたファンタジアバトルロイヤルでのことです。
当時は当然マテリアルゴーストの二次創作小説を書きたいなんて思わず、ただ「これは、面白い小説を書く作家が現れたかな?」と思っただけでした。一月下旬に『マテリアルゴースト』を買ったときだって(このときはまだ予約して買う、とまで僕の中で評価が高くはありませんでした)、「これは当たりかな?」と首をかしげてレジに持っていったものです。
そして『マテリアルゴースト』を読んで僕は思いました。「この作家、もしかしたら『スレイヤーズ』以来の本物かもしれない」と。そしてせきな先生のサイト『VOID』を見つけてそこのウェブ小説を読み、「本物だ」と確信しました。
そう。僕はせきな先生の作品にライトノベルの完成形を見たのです。本当に読みたかった小説はこれだと、そして僕の目指していたものもこれだと、そう思ったのです。
『マテリアルゴースト』のあとがきで書かれていますが、『マテリアルゴースト』は幸せの物語だそうです。僕もそう思います。『マテリアルゴースト3』まで読んできたいまなら、なおさら。
なので、この『マテリアルゴースト〜いつまでもあなたのそばに〜』もまた、幸せの物語にしたいです。途中どんなことが起こっても、やっぱり最後はハッピーエンドにしたいものです。
そういえば『プロローグ 風のはじまる場所』は勧善懲悪の物語でした。悪いとは思っていません。『キャラクターの紹介』という側面を持つプロローグはそうしたほうがいいと思って書きましたから。しかし、そう思う一方で、ありきたりな展開に少し不満もありました。
せきな先生の腕の見せどころは『仕方のないこと』を打倒する展開だと僕は思っています。その展開がとても好きです。
なので、おそらくこれからは、この物語も『仕方のないこと』――『運命』と戦う話になっていくと思います。ときにはそれに迎合することもあるかもしれません。それでも最後には『仕方のないこと』を『仕方のなくないこと』にしていきたいです。『運命』を変える物語を書いていきたいものです。『諦めない物語』を書いていきたいものです。もちろん蛍と鈴音をメインに据えて。
それにしても、どうして僕はそんな物語を書きたがるのでしょうか。もしかしたら、僕が小説家になることを諦めた人間だからかもしれません。自分が諦めてしまったからこそ、『諦めない物語』を書きたいのかもしれません。
そしてあるいは、この『諦めない物語』を完結まで書くことができたとき、また小説家を目指そうと――『仕方ない』と思ってやめたことを再びやってみようと思えるようになれるかもしれません。
さて、期せずして真面目なことを語りまくりましたが、そんなわけで、どうも、ルーラーです。『マテリアルゴースト〜いつまでもあなたのそばに〜』の『第一章 自分の意味は』の第一話――全体からいうなら第八話である『聖なる侵入』、いかがでしたでしょうか? 第五〜七話までと雰囲気はガラリと変わって、基本的に明るい日常のお話となっています。第四話で初登場だったサーラ・クリスメントがようやく蛍たちと出会ってもいます。
本当はもう少し長い話になる予定だったんですけどね。これ以上話を進めるとこの一話が長くなりすぎてしまうので、次回に回したのですよ。やっぱり読みやすい構成を心がけなければ。
なので、当然ながら第九話のプロットはもう完成しています。あとはそれを実際に執筆するだけ。まあ、その『執筆するだけ』が時間かかるのですけどね。
しかし、一ヶ月以上間が空いてしまったものの、ようやく続きが書けました。第一章、開幕です。プロローグだけ書いて放置、ということにならなくて本当によかったですよ。
あ、いまさら言うことではありませんが、今回は座談会形式ではありません。なぜかというと、色々思うところがありまして。主な理由としては、
1.小説以外のところで蛍たちにしゃべらせるのはいかがなものか。
2.小説を書く際の実力不足を露呈(ろてい)してるんじゃなかろうか。
3.あとがきがムチャクチャ長くなる。
といったところです。もし座談会形式のほうがいいという方がいらっしゃったら、ぜひご一報を。書くのが楽しくはあったので。座談会。
閑話休題。
ではこの辺りで今回のサブタイトルの出典を。
今回は『スパイラル〜推理の絆〜』(スクウェア・エニックス刊)の第六十二話からです。意味は『聖なる存在(聖戦士サーラ)が地球に侵入して(やって)きた』というものですね。
しかし、本当ここまで長かったですよ。約四ヶ月かかっています。ストーリーは全部できあがっているとはいえ、完結まで一体どれくらいかかることやら……。
まあ、書いてるときが一番楽しいというのも事実ですから、たっぷり時間をかけて完結させればいいのですが。
『マテリアルゴースト〜いつまでもあなたのそばに〜』は本当に完結まで書けるのか、一体どこまでやれるのか。詰め方の甘いプロットと稚拙な文章で紡がれている物語ですが、どうかつき合ってみてください。できることなら完結のときを迎える、その日まで。
それでは、また次のマテリアル二次でお会いできることを祈りつつ。
――――作者のコメント(転載するにあたって)
初掲載は2006年9月26日。
蛍とサーラの初対面を書くのが楽しくて仕方がない回でした。
あと、蒼き惑星(ラズライト)にある大陸の話を持ち出せたのがなんともよかったですね。第十三話は『幕間』と称して、とある大陸で物語が展開しますし。
そうそう、蒼き惑星のほうでも動きがある回ですね。空に地球の世界地図が映し出される、という。これは第三章あたりで地球と蒼き惑星を行き来するための手段となりますので(正確には蒼き惑星→地球の一方通行ですが)、まあ、その、なんといいますか、どういうことだろうと気長にお待ちください。
あと、2008年10月現在、僕は再び小説家になるべく腕を磨いています。そのためのネット小説でもあるのです。
それにしてもこの話、わずか6日で完成させたのですね。まあ、内容的にはそんなに長くはありませんけど、それでもよく『マテゴ3』を読んですぐに……。
……あ、そうか。『マテゴ3』を読んで、モチベーションがぐんと上がったんですね、きっと。
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