《見えざる手》によって



○式見蛍サイド

 現守高校はゆるーい校風の学校だ。
 髪も脱色くらいならうるさいことは言われないし、校内の空気にも息詰まるような堅苦しさや重さはない。
 そのためか、今日のように体育館で臨時の全校集会が開かれても、ちょっとした私語程度なら注意されることはなかったりする。もちろん、あからさまにうるさくしてる奴とか、先生が話をしているというのにいつまでも雑談に興じている生徒とかは別だけどさ。

 ――でも。

 僕は体育館の床に体育座りをしたままで、背後にある出口のほうに視線をやった。そこには壁に寄りかかって立っている、ドレスにも似た服をまとう金髪碧眼の少女の姿。

 ――完全な部外者である彼女――スピカ・フィッツマイヤーさんが私服で全校集会に参加できてしまうというのは、いくらなんでも規則が緩すぎると思うんだよ、母さん。

 もっとも、彼女の目的は昨日の放課後に言っていた通り、本当に僕の監視――というか観察だけらしい。そのためだけに、昨日のうちに学校側の許可を取ったというのだから、行動力があるというか、なんというか。とりあえず、落ち着かないことだけは確かだ。
 ちなみに今日の彼女からの接触は、教室に入る前にその現状を説明された、一度だけ。……いまのところは。

 さて、全校集会の内容だけど、なんでも昨夜、ここの屋上から男子生徒が飛び降り自殺をしたらしい。それは正直、ずいぶんと勇気のあることだと思う。この世界から去りたい――死にたいと思っていながらも、痛いの苦しいのが嫌という考えを持つ僕は、高所からの飛び降りをすでに選択肢から外しているのだから。それも、割と早い段階で。

 先生の話は、しかし、現守高校のゆるーい空気にでも影響されたのか、当初予定していた内容である『命の大切さ』とやらをあっさり通りすぎ、近いうちに夏休みに入る、というものに移っていた。

 もう一度、厳しい表情をしているフィッツマイヤーさんのほうに目を向け、視線がぶつかる。つい、こっそり嘆息してしまった。いくら『観察する』と公言されていても、落ち着かないものはやっぱり落ち着かない。まして彼女は、解決策のひとつとして僕の殺害を考えてもいるのだから。

 ぶるり、と背中を震わせ、前方へと視線を戻す。
 そして、我ながら矛盾しているな、とは思ったものの、心の中でつぶやいた。……死にてぇ、と。


○マルツ・デラードサイド

「なんか、誰もいませんね……」

 ケイとユウが家を出てから約一時間後。
 昨日と同じように、空間を渡って突然ケイの部屋に現れたニーナさんに連れられ、しぶしぶ現守高校と思われる場所へと僕はやってきていた。余談になるけれど、ニーナさんがやってきたのは、なんとケイたちが外出してから一分経ったか経たないかというくらいの直後だった。ケイが忘れ物でもしていたら確実にアウトじゃないか、とも思ったけれど、ニーナさんのことだから間違いなく、彼らが戻ってくる気配がないのを確認してからやってきたのだろう。……ケイ、忘れ物をしていなくても戻ってきて欲しかったよ。そうしてくれていれば今日、ここに来ずに済んだだろうに……。

 さて、いつまでも心の中で愚痴っていても始まらない。まず最初に疑問に思うこととして、この人気のなさはどうだろう。

「……本当にここが現守高校で間違いないんですか? ニーナさん」

 ケイから聞いた話によると、学校には同じ服を着た人間がたくさんいるらしい。だというのに、いま目の前に広がっている石畳が敷き詰められている道、遠くに見える建物、ありとあらゆる場所に人の姿が見当たらない。本当にここは現守高校なのか、僕じゃなくても疑いたくなるはずだ。

 けれど、ニーナさんは平然と返してきた。そんなのは当然、というニュアンスを含ませて。

「そうだよ。昨日、ケイくんと鈴音さんがここで――というよりも、教室で『聖戦士』や九樹宮九恵のことを話していたのを聞いたんだ。そのとき、周りにはケイくんや鈴音さんと同じ服を来た人がたくさんいたからね、間違いないと思う」

「教室? なんです、それ? あと九樹宮九恵って誰です? なんか初めて聞く名前ですけど」

「うん? 鈴音さんと同じ霊能力者だって。えっと、ね。能力は彼女よりも上で……。……それ以上の詳しいことは言わなかったんだよね、鈴音さん。
 あ、教室っていうのは、魔道教習センターでいうところの講義室みたいなものかな。ちなみに、ボクたちがいま立っているここが校門、遠くにあるあの建物が校舎ね。ケイくんたちの教室は校舎の中にあるんだよ」

「……詳しいんですね、ニーナさん」

「そりゃあ、ボクは普段、この世界の大気と同化しているからね。その気になればどこでも覗きたい放題なんだよ。いつでも好きな場所に姿を現すこともできるしね。……まあ、人の心の中までは覗けないけど」

「それは、されたらたまりませんから」

 それに、その『覗きたい放題』ですら、一歩間違えたら犯罪行為になるんじゃないだろうか。まあ、その犯罪スレスレの行為のおかげで、こうして道に迷ったりすることもなく辿り着けたんだろうけど。

「とりあえず、ケイくんたちの教室に行ってみよう。校舎には人がたくさんいるかもしれないし」

 反対する理由もなかったので、うなずいて歩き出す僕。いや、本当は反対したいことだらけなんだけどね。ケイに見つかったら怒られるんじゃ、っていまでも思ってるんだけどね。でも、いまさら帰るなんてこと、できそうにないし……。

 ――と。

「マルツ!? それにニーナちゃんも!」

 聴きなれた声が背後から耳に飛び込んできた。この声はもしかして、と思いながらニーナさんと同時に振り返ってみる。するとそこには、ここにいることには驚いたものの、予想通りの、僕がすぐさま脳裏に思い描いた顔があった。

 それは、いつも通り魔風神官のローブに身を包んでいる、僕の師匠である青い髪の女性、サーラ・クリスメント。しかし、驚きはそれだけでは終わらなかった。彼女の隣には、これまた僕の見知った顔が――それも、『僕の世界の側の人間』が存在していたのだから。
 背中まである黒髪よりも、身にまとったクリーム色のワンピースのほうが僕には特徴的に感じられてしまう少女、リル・ヴラバザード。ちなみに、特徴的、というのは、それが彼女の魅力を引き立てているとかいう意味ではなく、ただ単純に『珍しいな、あの服。どこでどうやって調達したんだろう』という類のものだったりする。

「師匠! それにリル!? なんで二人がここに!?」

 驚愕の表情をそのままに大声で問うと、なぜかリルの表情が不満げなものへと変わった。……あ、あれ? 僕、なにか彼女の気に障ることでも言ったのかな?
 首を傾げていると、フォローするかのようにニーナさんが耳打ちしてきた。

「マルツくん、リルはいま記憶を失くしてるんだよ。だからこっちで改めてつけた名前、『神崎りん』を彼女は名乗ってるの。――ケイくんから聞かなかった?」

「へ? そうなんですか? それは僕、初耳ですよ。ケイから聞いたのは師匠とリルがこっちの世界に来ているということだけです」

「あ、そうだったんだ。――まあ、とにかくそういうことだよ。彼女はリルだけど、リルじゃないの。わかった?」

「はあ、まあ、一応は」

 ニーナさんに答え、僕は改めてリル――いや、りんに向いた。……う〜ん、記憶を失う以前の彼女を知っているせいか、なんかやりにくいなぁ……。

「それで、ええと、二人はなんでここに?」

 質問そのものはりんに向けたもの。しかし、それに答えたのは師匠だった。

「ええとね、なんか適当に『電車』っていうのに乗ってここまで来たんだけど、現守高校っていうのがどこにあるのかわからなくってね。とりあえず、ここで誰かに場所を訊いてみようかってことになったんだよ。
 あ、正直言うと、鈴音ちゃんが前もってくれていたお金も残り少なくなっちゃったし、鈴音ちゃんの家に帰ろうにも、どこにあるかわからなくて帰れなくなっちゃってたんだよね……。うん、よかったよ。マルツに会えて」

 師匠はのほほんと言っているが、それはかなり切羽詰った状況なんじゃないだろうか。少なくとも、僕が同じ状況に陥ったら確実に途方に暮れていると思う。なんだかんだ言っても、僕がこうして余裕で構えていられるのはニーナさんが先導してくれているからだし。あ、それとバイトの報酬で懐が暖かいというのもあるかもしれない。あと、師匠と違って、途方に暮れるということ自体も、この世界に来た当初に体験済みだから、少しばかり余裕もあるのかも。

「それで、現守高校にはどう行けばいいのかな?」

「や、師匠。ここが現守高校です。ニーナさんの言ってることが正しければ」

「え? そうなの? よかったね〜、りんちゃん。無事に着いたよ〜」

 …………。なんというか、すごい強運だなぁ、師匠……。
 僕はその呑気さに、思わず額に手を当てて空を仰いでしまうのだった。




 ぶるり、と。
 師匠が身体を震わせたのは、校舎に入ったのとほぼ同時のことだった。……はて? なにか魔術的な結界でも張られていたのかな? 僕はなんともないから、もしかしたら女性にのみ効果を発揮する結界だったり?
 そう思考を巡らせてニーナさんとりんに目をやってみたが、二人は師匠と違って平然としたものだった。……まあ、もしかしたらニーナさんは界王であるため、女性としてカウントしちゃいけないのかもしれないけれど。

 ともあれ、校舎とやらには僕たちに害を及ぼすような魔術的ななにかはないようだった。しかし、だとすると解せない。師匠は明らかに動揺している。穏やかな瞳は不安に揺れているし、なにかを探すかのようにあたりに視線をさまよわせたりもし始めた。本当に、一体師匠になにが起こったというのだろう。
 それからも師匠は、歩きながらせわしく指を動かしたり、必要以上に歩く速度を速めたりしていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「あのさ……。……――って、……のかな……?」

 ごにょごにょと、空気をわずかに振動させる程度の声量でなにかを尋ねてきた。なぜか、唇を震わせながら。……よく聞き取れなかったので、「え、なんですか?」と訊き返す僕。それから今度は聞き逃すまいと彼女の口に耳を近づける。まあ、その行為には少しなんてもんじゃないためらいがあったけど。

「だから、その……、トイレって、どこにあるのかな……?」

 …………。えっと……。

「その程度のことを言うのに、そこまで躊躇しないでくださいよ! というかただトイレを我慢してただけだったんですか!? 何事かと思ったじゃないですか!」

「し、仕方ないじゃない! 無事ここに着いて気が緩んじゃって、それで、つい……、なんだから……!」

 つまり、ついさっきまでは師匠、気が引き締まっていた、と。全然、いつも通りの『のほほん』に見えたけどな、僕には……。

「そ、それに、誰だって躊躇するよ! ねえ! ニーナちゃん! りんちゃん!」

「う〜ん、そこでボクに振られても……。ボク、トイレで用を足したことないからね〜」

「うん。それは女の子なら誰だって訊くのためらうね」

 ニーナさんとりんはまるで間逆の反応を返した。それはそれとして、師匠はもう、女の子って歳じゃあないと思うけど……。
 師匠は僕の内心のツッコミに気づいた様子もなく、りん相手に続ける。

「だよね、だよね〜! いくら相手がマルツでも――って……!」

 と、そこで今度はいきなり青ざめ、ニーナさんのほうを向く師匠。

「まさかとは思うけど、ニーナちゃん。トイレの位置、把握してなかったり……する?」

「え? うん。そりゃあ自分が使わない場所がどこにあるかなんて、いちいち把握しようなんて思わないからね。だって、意味ないし」

「ぅ……」

「ちょ、なに? なんで涙目になってるの!? サーラさん!」

「うわあぁぁ〜んっ!!」

「なんで泣きだしてるのさ! ねえ!?」

 ああ、尿意というものを覚えたことのないニーナさんには、それを我慢するのがどんなに大変か、まったくもって想像がつかないんだな。
 それにしても、これはどうやら、ただトイレに行きたいだけと楽観視している場合ではないらしい。

「と、とりあえず捜しましょう! こういう公共の場所にあるトイレは大抵、狭い部屋に個室がいくつか並んでいるものですから、僕が見ればすぐにわかるはずです!」

 そうして、僕たちの壮絶なるトイレ大捜索が始まったのだった。……ケイがいるという学校に着いて一番最初にするのがトイレを捜すことだなんて、なんだかなぁ……。




 トイレが見つかったのは、それから五分ほどあとのことだった。
 師匠は僕が「あれじゃないですか!?」と二つ並んだ狭い部屋の片方を指差すよりも一瞬早く、向かって右側の部屋へと駆け込んでいってしまった。それでありながらちゃんと僕の言わんとしたところを汲み取っているのだから、なにげに師匠、時間や言葉の壁すらも越えていた気がする。ううむ、トイレへの執念と焦り、恐るべし。精神状態は集中とは程遠かっただろうから、<通心波(テレパシー)>も使ってないだろうし。

 そういえば、師匠はこの世界のトイレ――水洗トイレの使い方を知っているのだろうか。……まあ、いくらなんでも知ってるか。鈴音さんの家にだってトイレはあるだろうし。――それにしても、あの部屋がトイレじゃなかった場合、師匠はどうするつもりだったのやら……。
 そこに思考が辿り着くと同時、

「ひゃあぁぁぁっ!?」

「――どわあぁぁぁっ!?」

 部屋の中から師匠の驚きの声と、男の悲鳴が聞こえてきた。……あ、もしかして師匠が入ったの、男性専用トイレだった、とか?
 その推測は、顔を真っ赤にしてナイフ片手に飛び出してきた師匠の姿を目撃した瞬間、確信に変わった。ああ、やっぱりそうだったのか……。

 基本、僕たちの住んでいた世界――『蒼き惑星』では、トイレに男女の区別がない。この世界とは違って、ケイの家にあるような個室のトイレしか存在しないからだ。実際、僕も初めて個室のトイレが並ぶ部屋に入ったときには驚いた。立ったまま用を足す便器があったのには、驚きを通り越して、画期的だと感動すら覚えたっけ。まあ、どうにも恥ずかしくて、僕はいまでも個室トイレしか使えずにいるのだけれど。

 それに……そうそう、あれは確か、この世界に来たばかりの――公園で野宿をしていた頃のことだ。
 「あうあう」とナイフ片手に取り乱している師匠を見るともなしに眺めながら、僕はちょっぴり懐かしい心持ちで、けれどやっぱり軽いトラウマでしかないあの出来事を思い出した。

 それは、ある晴れた日のこと。トイレに男女の区別がつけられていることを知らなかった僕は、公園の女性専用トイレに、そうとは知らずに入ってしまった。そして手を洗っていた同い年くらいの女の子たち数人にタコ殴りにされてしまったのだ。正直、なぜいきなりボコボコにされたのかがいまだにわからない。
 だって、そうだろう? 別に僕はその子たちのなにを見たわけでもない。目に入ってきたのは女の子たちが手を洗う姿と、手を拭く際に使っていたハンカチくらいのものだ。
 大体、あのときにチラリと見えたのだけれど、女性専用トイレには個室しかなく、男性専用トイレのような、外から見える便器は一切存在しなかった。あれなら女性専用トイレで用を足しているところを見られてしまう可能性なんて、皆無に等しいだろう。
 むしろ、その危険性は男性にこそある。そう、おそらくは師匠が出くわしたのであろう男の人のように。……もしかしてその人、中で固まってしまっているのだろうか。なんか、一向に出てこないけど……。

 それから師匠はしばらくの間、トイレを捜していたことも忘れたかのように「な、なんで……! 中に……お、男の子が……その……チャ、チャックを下ろして……!?」とか叫び続けていたのだった――。

 …………。

 師匠、そう叫ぶということは、実は割とじっくり、長々と見ちゃってたんですね……。


○式見蛍サイド

 全校集会が終わり、僕とユウ、そして鈴音が教室に戻ろうと廊下を歩いていると。

「――『歪み』……。この上から感じますわね……」

 なぜか一緒についてきていたスピカ・フィッツマイヤーさんが、険しい表情を天井へと向けた。彼女と一緒に行動するのがさすがに苦痛に感じられていた僕は、特になにも返さずに歩みを続ける。ユウもユウで首を傾げこそしたものの、特に追究する気はないようだった。唯一の例外として反応を返したのは鈴音。

「そう、ですか? ――あ、この学校、低級霊が徘徊(はいかい)していることも珍しくはありませんから、その類じゃ……」

 ああ、確かにそうなのかもしれない。低級霊かどうかは知らんけど、ユウも当たり前の顔をしてすぐ隣を歩いているし。

「そうですかしら? 自慢ではありませんけど、わたくしの一族は『歪み』――悪霊などの感知に特化しておりますので、悪意のある霊なのかそうでないのかは、あなたたちよりも判別できるつもりですわよ?」

 うすうす気づいていたことではあるのだが、どうもフィッツマイヤーさん、同じ霊能力者同士だからなのか、鈴音に対抗心を抱いている感がある。あるいは同い年であることも影響しているのかもしれない。ちなみに、彼女の言う『あなたたち』というのは僕たち三人のことではなく、鈴音のお姉さんなどを含めた『神無家』を指しているのだということも、なんとなくわかった。

「それに、蛍。全校集会とやらで昨夜、男子生徒が自殺したという話があったでしょう? 屋上からの飛び降りで」

「え? ええ、言ってましたね」

 話を振られたら応じないと失礼になるだろう。正直、愉快に会話ができる相手ではないが、それでも僕は形式上、彼女の言葉の先を促すことにした。

「でも、それが?」

「あれ、おそらくは悪霊の仕業ですわよ。昨夜、わたくしも『歪み』が『力』を行使するのを感知いたしましたもの。もちろん、同時刻かはわかりかねますけれど」

「だったら――」

「ですので、これからそれを調べてくるといたします。いま感じた『歪み』がいるのが屋上であれば、昨夜感知した『歪み』と同一のものである可能性が高くなるでしょう?」

 いや、そうとも言い切れないんじゃ、とは思ったが、変に波風を立てるのも嫌だったので口には出さないでおいた。それに、彼女のほうから単独行動をとってくれるというのなら、願ったり叶ったりだし。……まあ、一緒に来いとか言われたらたまらないけど。
 ――あ、でも。

「フィッツマイヤーさんは僕をなんとかするために来たんですよね? なのに他の悪霊の退治もしたりするんですか? 別に誰かに頼まれたわけでもないのに」

 言ってから、しまったと思った。これは、下手すると『そうでした。わたくしには他の悪霊を退治する義理も時間もありませんものね。あなたの監視を最優先しなければ』とかいう方向にいく流れだ。

 しかし彼女は、若干、憤慨したように首を横に振った。

「頼まれたからとか、そういう問題ではないのです。この世界に『歪み』――この場合は悪質な霊体ですわね――が存在していて、それをどうにかすることを許されているのなら、フィッツマイヤーの一族は説得するなり浄霊(じょうれい)するなりして、それを全力で処理するのですわ。いわば、それがわたくしたち一族の責務なのですから」

 なぜだろう。それは要約してしまえば『自分のため』とも言えるものだったのに、けれど僕は、そんな彼女をどこか立派だと感じていた。責任感の強さとか、そういうのも含めて。

 不意打ちを食らった気分でポカンとしていると、金髪碧眼の霊能力者は「では、のちほど」と残して、すぐ近くにあった階段に脚をかけ、やがて僕の視界から消えていった。

「なんか、すごい人なんだな。色々……」

 思わず呟く。色々というのは、うん、まあ、色々だ。あの性格とか、最悪の場合は人を――僕を殺すことを覚悟している心の在り様とか、そういう、色々。しかしユウと鈴音は違う意味でとったのか、

「ケイ〜?」

「蛍ぃ〜?」

 と、なぜか二人してすごい視線で睨んできた。まったく、この二人はなんだってこう、ちょっとしたことで機嫌が悪くなるんだか……。
 「死にてぇ」と口に出さずにはいられない僕だった。




「な、なんで……! 中に……お、男の子が……その……チャ、チャックを下ろして……!?」

 僕たちがその声を耳にしたのは、フィッツマイヤーさんが上がっていったそれとは別の場所にある階段の、すぐ近くに位置しているトイレに差しかかったところで、だった。

 わざわざ別の階段なんか使おうとしないで、さっきの階段でフィッツマイヤーさんと一緒に上がっておけばよかったじゃないか、というツッコミは、正しいのか微妙なところだ。ほら、誰にだってあるだろう? いつも使用している階段というか、ルートっていうのものがさ。それが僕たちにとってはこの廊下であり、階段だったというわけで。それに、多少好感を抱けたとはいえ、やっぱりフィッツマイヤーさんとわざわざ一緒に行動するのも、気が進まなかったし。
 でも、その声を聞いた瞬間、さっき彼女と一緒に階上(かいじょう)に行ったほうがよかったかな、と思ってしまったのも事実で。
 しかしそうしたところで、結局、どうしたって今日中にはいまの声の主たちと会うことになったのだろうから、その会うときが早まっただけともいえた。うん、結論。どうせどっちを選んでもバッドなルートに行くんだったんだろうから、フィッツマイヤーさんと一緒に行動せずに済むこっちのルートを選択したこと自体は、やっぱり正しかったと思われる。……まあ、それでも嘆息はしてしまうけどね。

 いま僕の視界に映っているのは、僕が現在同居している、異世界からやってきた緑髪の少年と、その少年いわく『ビッグバンによって誕生した』らしい、界王という称号(?)を自らに冠している少女。そして数日前から鈴音の家に同居しているという、現在は壁にもたれるようにして立っている黒髪の少女に、彼女だけは絶対に同居人に迷惑をかけることはないだろう、と思っていた青い髪の、外見だけなら少女と称しても問題なさそうな女性の姿。

 ……つまり、マルツ、ニーナ、神埼りん、サーラさんの四人だった。まったく、どうしてこの異世界メンバーがここにいるんだ?

「あっ、ケイくん! こんなに早く会えるなんて運がいいね!」

 僕の姿を視界に納めるなり、パッと表情を輝かせたのはニーナ。僕としては全然、運よくなんかないけどね……。
 そして、それはニーナの声で僕の存在に気づいて「げっ! ケイ!?」と声をあげたマルツも同じだったらしい。少しの間どうしたものかと視線をさまよわせた末に、渋々といった様子で僕に目を合わせてくる。……ああ、なんか理解。こいつ、絶対にニーナに巻き込まれただけだ。それ以外の可能性がちょっと思い浮かばない。そんなわけで、とりあえず彼には若干の同情を込めて、視線を返した。

 さて、実は一番の問題は、真っ赤になって「あわあわ」と口を震わせているサーラさんだ。彼女、この中では一番の常識人だと思っていたのに、まさかニーナたちと一緒にここに来るなんてなぁ……。正直、昨日の下校時に思った、同居人としてマルツとサーラさんを交換したい、というのをちょっと撤回させてもらいたくなってくる。

 と、その彼女が軽く身体を捻った瞬間に、キラリと鈍く光るなにかが見えた。本当ならここに存在しちゃいけないはずのものなのだけど、確かに見えた。見えてしまった。

「あの、サーラさん、それは……?」

 それがなんであるかなんて、残念なことによくわかってしまっているのだけれど、それでもやっぱり、尋ねずにはいられなかった。サーラさんはやや落ち着きを失った様子で答える。

「え? こ、これ? ナイフだよ? ナイフ」

 ……できれば否定してほしかった。そんな僕の心中を察してくれることなく、彼女はコンビニなどで百円も出せば買えるような果物ナイフを掲げてみせる。

「一応、護身用に買ったんだよ。初めてこの世界に来たときに入ったお店と同じ感じのところで」

 その発言にドン引きする僕とユウ、鈴音の三人。驚いていないのはサーラさんと同じ世界の住人たちだけだ。……まあ、ニーナは常識というものが抜けている感があるし、りんも記憶喪失なのだから、サーラさんの行動が現代日本においてどれほど異常かがわからなくても仕方ないのかもしれない。しかし、マルツのスルーっぷりはどうだろう。一番常識的だと思っていたサーラさんの次に――この世界にいる期間が長いという意味では、もっともこの世界の常識に慣れ親しんでいるのが彼であるはずなのに。

 おそらくは、マルツたちの住む世界では、護身用に武器のひとつも持ち歩くのが常識なのだろう。うん、そうに違いない。そうでなければ、サーラさんとマルツがただの異常者ということになってしまう。

 ただ、それでも。
 昨日、サーラさんは人の言うことを聞かずに暴走することはないだろう、と思ったことだけは、全力で撤回させてもらいたくはなった。あ、それと、同居人としてマルツとサーラさんを交換したい、というのも。うん。場合によっては、マルツよりも迷惑をかけてきそうだ、サーラさん。それも、本人無自覚のうちに。

 それはそれとして、なんでサーラさんがナイフを取り出すような事態になったのだろう。マルツたちが学校に来た理由はもはや訊く気も起きなかったということもあり、学校という場所の性質上、特に問題になりそうなそちらのほうをマルツに尋ねてみた。……いや、まあ、もちろん彼らが先生に無許可で校内にいるのも、充分問題にはなるのだけれどね。それでも、ナイフの持ち込みに比べれば、まだ些細な問題だといえるだろう。

 果たして、マルツの答えはなんとも呆れてしまうものだった。思わず脱力しながら反復してしまう。

「……トイレを捜していて、見つけると同時にサーラさんが駆け込んだ? しかも間違えて男子トイレに入って、ナイフ片手に飛び出してきた、だって? なんだそりゃ……」

「いや、僕に言われても……。――そういえば師匠、トイレ、行かなくていいんですか?」

「えっ!? あっ、そ、そうだった!」

 ダッシュで、今度は間違えずに女子トイレに入っていくサーラさん。……まったく、やれやれだ。
 というか、用を足しているところを見られた男子生徒も災難だな。本来なら、見られた男子生徒と、見たサーラさん、果たしてどちらが災難だったのかと悩むところだけれど、今回は圧倒的、絶対的に前者だ。だって、いきなりナイフを取り出されたのだし……。

 僕がそんなどうでもいい――ある意味ではどうでもよくなんて全然ない思考に没頭していると、「そういえば」とユウがニーナに話しかけていた。考えるのを中断し、僕もそちらを向く。

「ニーナは黒江っていう男の人、知ってる?」

 うわ、唐突。そりゃ、僕からだと偽って陽慈に『スーパーに来い』なんて伝言(?)を伝えた『黒江』という人のことは、当然、僕もタイミングを見計らってニーナに訊いてみるつもりではいたけどさ。

 ニーナはイタズラっぽい笑みを浮かべ――たりはせず、「黒江? 誰それ?」と目を瞬かせた。正直、この反応は意外だった。てっきり「あ、バレちゃった? いやあ、ちょっと暇だったからさぁ」とか、そういう返しが来るものだと思っていたから。
 いや、それ以上に。

「本当に知らないのか? お前と同じ『界王(ワイズマン)悪夢を統べる存在(ナイトメア)の端末のひとつ』だと思うんだけど」

「や、『界王の端末』はボクとニーネの二人だけしかいないよ。それだけは間違いない……と、思う」

「なんで自信なさげなんだよ」

「……う、仕方ないじゃない。界王の本体がボクに知らせることなく『新しい端末』を創った可能性だってあるんだから。――もっとも、そんなこと、まずあり得ないとは思うけどね!」

「なんか、すぐさま自信を取り戻したな。……でも、そうか。僕はてっきり――」

「というか、さ。どうしてそう思ったの?」

 どうして? どうしてって、そりゃあ……。

「その黒江って人が言ったんだよ、自分で。まあ、僕も本人から直接訊いたわけじゃないけどさ」

「『自分は界王の端末だ』って? 嘘をついているってことは……。ううん、でもそんな嘘ついたところで、変な目で見られるだけだしねぇ……。ちなみにそれ、誰から聞いたの?」

 いやいや、本当に『界王の端末』であるヤツが言っても、やっぱり変な目では見られると思うぞ。まあ、そんなツッコミは心の中で留めておくとして。

「それは……えっと、ニーナは知らないかな? 九樹宮九恵さんって人からなんだけど」

「ああ、九樹宮九恵ね。知ってる知ってる。でも、彼女がねぇ……。――あ、その黒江って人、本当に『界王の端末』って言ってたの? 実は『ビッグバンによって誕生した』だけだったりしない?」

「それって、そんなに重要な違いなのか?」

「重要だよ。ものすご〜く」

 …………。そういうものなのか。『ビッグバンによって誕生した』というのは、『界王の端末』であることとイコールだと思っていたのだが……。

「……ふむ。言われてみれば、九恵が言っていたのは違ったな。確か……そう、『世界と同時に生まれた存在(もの)』、だったか」

「世界と同時に、ね……。ふうん、なるほどね」

「なにが『なるほど』なんだ?」

「うん、ボクとニーネは『蒼き惑星』における高位存在でしょ? だったら――」

 ニーナがそこまで口にしたときだった。

「――っ!?」

 鈴音が突然、目を見開いて鋭く息を呑む。しかし、それも一瞬。すぐに怪訝そうな表情になり、首を傾げて周囲をキョロキョロと見回し始める。

「……どうした?」

 端から見ていて、あまりにも挙動不審だったため、なんとはなしに尋ねてみた。しかし鈴音からは「……いま、なんか……」とよくわからない返答しか返ってこない。どうやら、彼女自身にもよく状況がつかめていないようだった。

 カツン、と静かに響く音。
 そちらに視線を向けると、トイレ脇にある階段に脚をかけたりんの姿が目に入った。ぱちくりと瞬きをし、鈴音が疑問の声を上げる。

「りん?」

 返答は、なかった。ただ無言で階上へと歩を進めていく。僕の視界から消えていこうとするその姿が、なぜか先ほどのフィッツマイヤーさんのそれと重なって見えた。

 どこか呆然とした様子で、マルツが呟く。

「ええと……、一人になりたい気分、とかいうやつなのかな……」

 誰よりも、口にした本人が自分で自分に呆れている様子だった。それはそうだ。りんはこの学校に初めて来たのだから。一人で行きたい場所なんて、ないに決まっている。けれど、だったらどうして……?

「お待たせ〜。ふぅ、すっきりした〜」

 本当に心の底からすっきりした表情を浮かべ、サーラさんが大きく伸びをしながらトイレから出てきた。ちゃんと手は洗ったのだろうか、と見てみると、彼女の両手は確かにしっとりと濡れているようだった。とりあえずは一安心。

「あれ? リルちゃん、どこ行ったの?」

 そうだった。一安心なんかしてる場合じゃなかった。とりあえず追いかけてみるべきだろう、と僕も階段へと足を向ける。――と、そのとき。

「くっ……! 間に合いませんでしたわね……! まったく、建物の中というのは、やりづらいったらありませんわ……!」

 バタバタという表現がよく似合う歩調で、輝くような金髪を振り乱しながらフィッツマイヤーさんが全力疾走してきた。彼女が走っているのは、ちょうど当のフィッツマイヤーさんと別れた僕たち三人が歩いて来た廊下だ。おそらくは校内で迷わないよう、自分の上がった階段を駆け下り、僕たちの通った道をそのままなぞってきたのだろう。どうやってなぞってきたのかは……本当に推測だけど、たとえば、廊下に僕の霊気が残留していて、それを辿ってここまで来た、とか。

 それにしても、相当切羽詰った様子だった。一体なんだというのだろう。そもそも、彼女は屋上に向かったはずじゃあ?
 僕の内心の疑問に答えるかのように、フィッツマイヤーさんは大声で事情を説明してきた。

「床やら壁やらを透過されて、屋上にいた『歪み』に逃げられましたわ! しかも、このあたりに向かったことは感知したのですが、誰かに憑依でもしたのか、そこから先の移動が漠然としかつかめなくなってしまったのです!」

 ……ん? このパターンは、もしかして……。

「そんなわけで蛍、あなたに協力を要請しますわ! ずっとここにいたっぽいあなたなら、『歪み』が誰に憑依したのか、おぼろげにでもわかりそうですものね!」

 やっぱり強制的に協力させられる流れだ!
 ……ああ、この展開を少しばかり想像できてしまった自分が恨めしい。

 でも僕には、金髪碧眼の少女の告白がちょっと意外に感じられた。だって、彼女はどう考えてもプライドの高い性格にしか思えない。なのに悪霊を取り逃がしたことをこうもあっさり打ち明けるなんて。
 それに、だ。他の人間の手を借りることをよしとするタイプでもないだろう、フィッツマイヤーさんは。それを証明するように、同じ霊能力者である鈴音とは目を合わそうともしないし。

 それはともかく、僕は今日、何度目になるかわからないため息をついてから、彼女に向き直る。

「そうは言われても、僕は悪霊の姿なんて見てませんよ? 多分、他の皆もそうだと思います。ちなみに、悪霊の気配……っていうのかな。それはいま、どのあたりから感じられるんです?」

「上から、ですわ。先ほども言ったとおり、漠然と『上』としかわからないのですけれど……。だからこそ、どんな些細なことであっても、気づいたことがありましたら教えてほしいのです」

 気づいたこと、と言われてもなぁ……。

「……まあ、鈴音の様子がちょっと変だったり、りんが上の階に上がっていっちゃったりはしたけど」

 ……ん? りんが上の階に……?

 いや、まさかとは思うけど……。

 そもそも、悪霊が僕たちの五人の誰にも見られずに、りんに憑依するなんて、できるわけが……。

 ……待てよ。なにかが引っかかる。鈴音のあの挙動不審な反応は、おそらく悪霊の気配を感じたからなのだろうけど、それは瞬時に収まっていた。それこそ、鈴音本人がその気配に戸惑っていたくらいなのだから、りんにもし悪霊が憑依しているのなら、本当に、現れるとほぼ同時に悪霊は彼女にとり憑いたということになる。……でも、どうやって?

「上の階、ですか……。わたくしが感知できている『歪み』と、方向的には同じですわね」

 そこで彼女は「けれど」と鈴音のほうを向いた。

「あなたにもさほど気づかれずに憑依対象に接近し、とり憑いてみせたというのは……」

 息を完全に整えるためだろうか。フィッツマイヤーさんは壁にもたれ、「解せませんわ」と腕を組む。

「――あ……っ!」

 そこで、やっとなにが引っかかっているのかが理解できた。そうだ。さっきのりんもフィッツマイヤーさんと同じように壁にもたれて……!

「その行為――りんが壁にもたれていたのがマズかったんだ! 悪霊はきっと、壁をすり抜けた次の瞬間にはりんにとり憑いていたんだよ! つまり――」

 そこで鈴音が後を継ぐ。

「つまり、悪霊は本当にりんにとり憑いているっていうこと!? じゃあ、悪さをする前に早くりんを探さないと……ああ、でもどこに!」

「落ち着け、鈴音! ……と、いっても、確かにとり憑いた悪霊の性質がわからないんじゃ、どこに向かったらいいのかも……!」

「蛍。あなたも落ち着くべきですわよ。……そうですわね、りんという少女に憑依した悪霊が、昨夜、わたくしが感知した『歪み』と同一のものと仮定するならば、『歪み』が向かうのは……やはり、屋上でしょうね」

 フィッツマイヤーさんの不吉な推測に、マルツが引きつったような笑みを浮かべた。なんとなくは理解できるけれど、それに確信は持てない、いや、持ちたくないというように。

「それって、つまり……?」

「……屋上から飛び降りるって、こと? フィッツマイヤーさん」

 おそらくはマルツと似たような表情をしていたであろう僕に、彼女はとても固い面持ちでうなずく。

「……おそらくは」

 それは、同じ世界の出身者だからなのだろうか。彼女の返答を聞くと同時、マルツの顔一杯に焦燥の色が広がった。

「だったら……!」

 マルツの心情を察し、僕もまた、うなずく。

「ああ、急がないと……!」

 りんが上の階に向かうのを、どうしてあの段階で止めなかったのだろう。そんな、考えたところで仕方のないことを頭の片隅で思いながら、僕は階段を一段飛ばしで上がっていくのだった。




 屋上の端にあるフェンスの向こう側。
 かすかに吹く風に髪を舞わせ、虚ろな瞳で、緩慢な動作で、少しずつ死へと足を進める神崎りん。
 屋上に辿り着いた僕たちが一番最初に目にした光景が、それだった。

「りん!」

「リルちゃん!」

「りん!」

「リル!」

 冗談じゃない。
 悪霊に憑かれているのなら無意味だろうと、そう心のどこかでわかってはいたものの、僕は――僕たちは、りんに制止の叫びを向けた。いや、正しく言うのなら。それは、ただの驚きから出たものなのかもしれない。少なくとも僕の中では、焦燥ばかりが膨れ上がっていたのだから。
 しかし、この場にはまだ充分落ち着きを保っている少女が――霊能力者が二人いた。それはもちろん、言うまでもなく鈴音とフィッツマイヤーさんだ。
 鈴音はとっさのことに弱く、すぐ混乱状態に陥ってしまう傾向があるため、その落ち着き具合がちょっと意外に感じられた。けれど、これくらいの状況は予想できていたということなのだろう、と思い直す。
 僕がそんなことを考えているうちにも、彼女はよどみなく懐から札のような物を取り出し、

「――ハッ!」

 と、なにかの構えをとる。

 刹那の間すら置かずに、りんの全身がピクリと震え、硬直した。まるで後ろから引っ張られ、それに抵抗しているように感じられる。
 しかし、その膠着状態も数瞬で解けた。りんの身体がわずかに揺らぎ――こちらとは間逆の方向に歩行を再開した!

「っ……! りん!」

 唇を噛みながらの、鈴音の叫び。それはつまり、彼女には対処しきれなかったことを意味していて。

「ちょ、おい! りん!」

 それを理解すると同時、僕は遅まきながらもフェンスへと――その向こう側にいるりんの元へと駆け出した。

「待て! おい! 飛び降りは多分、すごく痛いぞ! 自殺するにしても別の方法にしておけ! な!?」

 りんはもちろん答えはしない。わかってる。悪霊にとり憑かれているのだから、返答のしようがないことくらい。これがりんの意思ではないことだって、自分がとんでもなく馬鹿で、無意味な制止の言葉を発しているのも、もちろんわかってる。それでも、なにも言わずにいることなんてできなかった。フェンスに駆け寄るまで無言でいることなんて、できやしなかった。

 りんの両脚が屋上の縁(へり)に乗ると同時、「ふぅ」と誰かが息を漏らす気配がした。込められている感情は、呆れ? 落胆? いや、そのどちらもあるようだけれど、それ以上に感じられたのは――安堵?
 反射的に背後を向くと、フィッツマイヤーさんが今度は意味のあると思われる呟きを漏らした。右の掌を、遠く離れたりんの肩を掴もうとでもするように広げながら。

「――alleluia」

 うん? いま、なんて言った? ア、アレル……?

「――っ!」

 鋭く息を呑む音が耳に届いた。いま、その音を発したのは、フェンスの向こう側にいる、りん……?
 見れば彼女の背中から、禍々しい黒い『なにか』が染み出るように現れ、バリッという音を立てて弾かれるように分離、次の瞬間にはガシャンとフェンスにその身をしたたかに打ちつけていた。

 驚きのあまり、僕はフェンス越しにのたうち回る『黒いなにか』を呆然と視界に納める。状況がこちらの理解をはるかに超えて動いたため、すぐには思考を再開できなかったのだ。……って、まるで鈴音みたいなこと言ってるな、僕。
 ともあれ、その『黒いなにか』は、よく見てみれば人間とそう変わらない姿をしていた。最初、『黒いなにか』としか捉えられなかったのは、葬式にだって着ていけそうな黒いビジネススーツに身を包んでいたからだし、年齢も四十台前半といったところ。
 ただ……ただひとつ異様な点として、『彼』は人間なら基本、誰だって持っているものを持っていなかった。そう、肩から続いて存在するはずの『両腕』が、なかった。

 ちょっぴり――いや、かなりグロいその肩の先に絶句し、思わず後退る僕。するとそれを好機とみたのか、両腕のない『彼』は迷わず屋上から空へと身を躍らせる。その自殺行為的な行動に驚きはしたものの、それも一瞬。『彼』は霊体が物質化する僕の半径二メートル強の『物質化能力』の範囲から出ると、霊体特有の滑るような『浮遊』ではるか遠くへと飛び去っていった。
 ふむ、あの禍々しさ、りんにとり憑いていたという事実、両腕がなかったにもかかわらず、血の一滴も流れていなかったこと、それらを合わせて考えてみるに、おそらくはあれが先ほどからフィッツマイヤーさんが探していた――というか、追いかけ回していた(?)悪霊だったのだろう。……まあ、だからといってあの悪霊が、フィッツマイヤーさんが昨夜に感知したという『歪み』と同じ存在かは断定できないけれど。

 まあ、ともあれいまは一件落着といって……よくなかった!
 りんの様子はどうだろうかと目をやれば、彼女は案の定、とり憑かれたときの精神的なショックから気を失っているようだった。そして、彼女の左足は屋上の縁に一応乗っていたが、右足のほうはすでに宙に浮いており……。
 なんとかバランスを保ててはいるようだけれど、かなり危うい状態だった。

 顔はりんのほうに向けたまま、背後にいるフィッツマイヤーさんに大声で問いかける。そう、悪霊を引き剥がしてくれたのであろう、けれど現状をこれ以上どうにかする気はないっぽい、責任感があるんだかないんだかよくわからない金髪碧眼の霊能力者に、だ。

「ちょっ、どうするんだよ、ここから! 明らかに対処遅れたんじゃないか!?」

 慌てているせいか、もう完全にタメ口。幸い、彼女はそれに気を悪くした様子はなかった。なかったけれど、にべもない答えを返してくる。

「……そう言われましても。これはいわば自然現象であって、『歪み』の『力』によるものではないでしょう? でしたら、わたくしではどうしようもありませんわよ。霊能力では、彼女を落ちないように支えたりといった物理的な干渉は一切できませんもの」

「薄情者おぉぉぉぉっ!!」

 叫んだ。大声で叫んだ。しかし、叫んだところで事態はなにも解決しない。すぐさまりんへと意識を戻す。

「や、ヤバイ! りん! もうちょっと持ちこたえて!」

 そう言いながら、なんとかしてよじ登るべくフェンスへと両手をかけた。それで均衡が失われた、というわけではもちろんないのだろうけど、りんの身体の向きが傾く。こちら側にではなく、なんの支えもないあちら側――空中へと。それが酷くゆっくりに、スローモーションのように感じられる。

 ああ、本当にヤバイ! こういうとき、フェンスをすり抜けて、空を飛んで、りんを抱きかかえてでも助けられればいいのに! ……って、そうだ! 僕にはできないけど、それができるやつがいるじゃないか! ユウだ、ユウ! 彼女にならそれも可能だ!
 それは、まさに思考の暴走。あまりにも短い時間の中で、僕は必死に考えを巡らせた。そして、僕はさっそくユウがフェンスをすり抜けて空を飛べるように、彼女を『物質化能力』の範囲から出すように動こうとして――。

 …………。

 ……いや、ちょっと待て。ユウが僕の『物質化範囲』から出て、フェンスをすり抜けられるようになるということは、つまり物に――りんにも触れなくなるということで……。……あ、じゃあじゃあ、ユウがりんを受け止める体勢になったところで、再び僕の範囲にユウを入れれば――ユウは、その、りんと一緒に落ちていくことになるわけで……。……って、ダメじゃん!
 よくよく考えてみれば、『物に触れる』という行為と、霊体特有の『すり抜け』と『浮遊』という特殊(?)能力は、どうやったって同時には成立しないのだ。ああ、なんて役に立たないんだ、ユウ……。いや、違うか。この場合、役に立たないのは僕の『物質化能力』だ。

 一体どうしたらいいんだ、と諦めが頭をよぎりそうになった、その瞬間。

 唐突に、下のほうから力強い声が響いてきた。

「飛行翼(フライ・ウイング)っ!」

 同時に、どこからともなく現れる、高速で宙を駆ける影ひとつ!

 その影はタックルする勢いでりんに接触。しかし彼女を吹っ飛ばすことはせずに、大空へ向かって急上昇する。少しの間があって、影は『Uの字』を描いて僕のすぐ隣に背を向けて着地した。

 振り返った、その人物は、

「マルツ!?」

 だった。

「な、なんで、マルツが……?」

 思わず声がかすれる。誰もがほれぼれするような飛行をしてみせたマルツは、それにキョトンとした様子で返してきた。

「へ? なんでって。さっき言っただろ? 僕は下で待機することにして、落ちる寸前で受け止めるからって。……まあ、実際にやってみたら、けっこうギリギリだったわけだけど……」

「言ってない言ってない!」

「へ? そうだったっけ? まあ、いいや。りんは無事っぽいし」 

「…………。散々ハラハラさせといて、それで済ますのか……」

 まあ、いいけどさ。一件落着ではあるわけだし。

 眠っているかのように気を失っているりんをそっと横たえるマルツの姿を視界に納めながら、ふと思った。
 そういえば、屋上に向かうと僕が言ったとき、マルツは『だったら……!』としか返してこなかった気がする。あれは、言外にこういう行動をするから、と言っていたのか……。
 さらに、あまりにテンパっていたため気がつかなかったが、確かにマルツは屋上にはついてきていなかった。屋上に到着した際、りんに一斉に呼びかけたのだって、僕とサーラさん、ユウとニーナの四人だけだったし。

 あ、そういえば。

 りんが助かって気が緩んだからなのだろうか、意識せず、僕は思ったことをそのまま呟く。

「――マルツがここまで活躍したのって、今回が初めてじゃないか?」

「失礼なっ!!」


○魔風神官シルフィードサイド

 ――なぜだろう。

 はるか上空から、式見蛍たちを見下ろしながら、思う。
 《見えざる手》によるリル・ヴラバザードへの憑依。それそのものは私が下した命令ではなかった。私が命じたのは、『居場所を感知されたようだから、一旦『屋上』と呼ばれるこの場所から離れろ』という、ただ、それだけで。
 また、その命令を下した私自身もまた、この物質界に存在し続けてはいるものの、『実体化』ではなく、魔法力の消費が少なくて済み、存在感が薄くなる『物質化』をするに留めていた。理由は当然、あの金髪の少女に存在を気取られないためだ。

 《見えざる手》が私の命令以上のこと――リル・ヴラバザードに憑依などという勝手なことをしたのは、おそらく悪霊としての本能のようなもののせいだろう。『憑依するな』と釘を刺しておいたにも関わらず、というのなら問題だけれど、屋上から離れたあとのことはまったく指示していなかったのだから、あの悪霊の行動自体はそこまで疑問に思うほどのことではない。

 だから、私が疑問に思ったのは。

「なんで、私はリル・ヴラバザードが助かって、ホッとしている……?」

 それだった。
 それは、魔族には絶対にあり得ない心の動き。理由はわかりきっているけれど、認めたくはない、その心情。愚かな思考パターン。魔族である私にとっての、最大の……不幸。

 ――間違いなくキミはケイくんになんらかの『救い』を求めてる――。

 不意に、以前『闇を抱く存在(ダークマター)』を倒すために共闘したとき、ナイトメアに言われた言葉を思いだした。

 否定はしない。できない。



 私は自分から『救い』を手放すような真似をしておいて。



 その『決定的な行為』が失敗する度に安堵している。



 けれど――。

 ギュッと目を瞑り、頭(かぶり)を振る。『救い』を求める自分の心を押し潰さんと。

 ――否定は、できないけれど。



 それでも、そこから目を逸らすことは、まだできる。



 この姿勢がどれだけひねくれていようとも。



 私には、予感があるから。



 これを認めてしまったら、我が主――魔風王(ダーク・ウインド)様に従うときに、きっと苦しみを覚えてしまう。



 そんな、予感が。



 だから、私は認めない。



 絶対に、この感情を認めない――。



 心を固くし、魔風神官としての『私』を保つ。
 そんなことを、私はこれまで、この世界に来てから何度繰り返しただろう。

 閉じていた瞼を開き、改めて眼下を見下ろす。
 その瞬間、青い髪の『聖戦士』と目が合った。

 おそらくは、なにかの偶然で見上げただけだったのだろう。彼女はすぐにマルツ・デラードとリル・ヴラバザードに視線を戻す。

 それでも。
 そこに他意はなかったのだとわかっていても。
 私の中からは、暗く、冷たい、だというのに自分では制御できないほどの熱い感情が――どうしようもない憎悪が、とめどなく溢れ出てきていた。

 サーラ・クリスメント。
 人とモンスターの共存は唱えるくせに、魔族のことは『生命(いのち)あるものの天敵』と切り捨てた偽善者。

 わかっている。彼女の考えは正しい。魔族には『生命あるもの』との共存を望むものなんて、存在しない。それは、私だって同様……のはずだ。

 それでも。
 それが理解できていても。
 この嫉妬にも似た、狂おしいほどの憎悪は抑え切れそうにない。

















































 ――次のターゲットは、彼女だ。






――――作者のコメント(自己弁護?)

 のっけからいきなりですが、遅筆ですみません。ルーラーです。でも今回はお待たせしただけの長さと内容があると思うのですよ。いや、まあ、もちろんそれが面白さに直結するわけではありませんが……。
 それはともかく、三ヶ月以上の間が空いてしまいましたが、ここに『マテそば』第一章の第七話をお届けします。

 今回は日常から非日常への移行を意識して書きました。当然、次からは物語が一気に進む……予定です。
 それにしても第七話って、プロローグだともうラストの回なのですね。ここでようやく事件が本格的に起こるのですから、果たして第一章は終了まであと何ヶ月かかるのやら……。

 一番の見せ場はやはりスピカの掛け声『alleluia(アレルヤ)』でしょうか。これ、実は『アーメン』とどちらがいいか、けっこう迷ったのですよ。『アレルヤ』のほうが響きが好きなため、これに決定しましたが。
 あ、もちろんそれだけが理由じゃないですよ? 『アーメン』には『そうなりますように』という意味があり、だったら『アーメン』の前に『そう』に当たる言葉を長々と入れる必要があるだろうな、と思いまして。
 で、やっぱり掛け声は短い『一言』にしたかったのですよね。これで『アレルヤ』の意味が『祝福あれ』とかだったらピッタリだったのになぁ(『アレルヤ』の意味は『主をほめ賛えよ』というものです)。

 あとは、まあ、サーラがナイフを持っているのをマルツはまったく気にしていなかったりとか、一人称だからこそできた『マルツは最初、屋上に来ていなかった』トリックとか、けっこう色々と詰め込んであります。
 本当は、また前後編にすることも考えたのですけどね。でもこれ以上話数を増やすのもアレですし、このトリックは(りんが悪霊に憑かれた経緯も含め)、気づかれる可能性高かったので、考えに考えた結果、やっぱり一話にまとめちゃいました。

 さて、ではそろそろ恒例のサブタイトルの出典にいくとしましょう。
 今回はジョン・スラデックの同名短編作品『見えざる手によって』からです。意味は本当にそのままですね。《見えざる手》によって引き起こされた事件その一、といったところです。

 次の話ではようやくジェットコースターで言うところの『落ちる』ポイントが書けそうで、普段以上にワクワクしております。……って、なんて性格の悪い(苦笑)。
 ともあれ、稚拙な文章と構成ではありますが、これからどうなるのか楽しみにしていただけると嬉しいです。……実は若干、プロットに変更点とかもあったりするんですよね。長期間に渡って作品を書いていると、こういうことがけっこうあるのですよ(笑)。

 それでは、また次の小説で会えることを祈りつつ。



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