心の砕ける音
○シリウス・フィッツマイヤーサイド
トランクを持って空港を出た俺の目に最初に飛び込んできたのは、いまにも雨が降ってきそうな分厚い灰色の雲が敷き詰められている空。
そして、よく言えば活気のある、悪く言えばせわしく動き回っている無数の人間たちだった。
日本のことを嫌いだというつもりは毛頭ない。ないのだが、やはりこの光景を見るたびに呆れと共に思ってしまう。こんなに狭い島国でそんなに急いでどこかに向かうこともないだろうよ、と。
「まあ、急いでいるのは俺も同じ、か」
ひとつ伸びをし、あくびをし。
視界いっぱいに広がる雑踏へと足を踏み入れる。
そういや、神無家のサムライボーイはどうしているのだろう。今回の事件には関わっているのだろうか。前回来日したときには、あいつの他に深螺とも組めたおかげで、ずいぶんと楽に仕事を終えられたものだったが。……ぶっちゃけ、俺のやったことなんて、ないに等しかったし。
「ああ、でも心労という面ではすごかったか。あいつら、すさまじく仲が悪かったからな……」
だが、それは違うか、とすぐ苦笑交じりに思い直す。
あれは仲が悪いというのとはまた別だ。ただ、深螺が一方的にあいつを嫌っていただけで。まあ、あいつの他人行儀な態度も、間違いなく一因ではあったのだろうが。
戸籍などを始め、家族としての縁は切ったらしいが、俺は知っている。あいつが深螺やその妹である鈴音のことを常に気にかけていることを。そのあたりは俺と同様、やはり腐っても『兄』だ。いや、別にあいつが腐っていると言うつもりはないが。……いや、俺ほどではないにしろ、やっぱり腐ってるか?
なんにせよ、次にあいつらと組むときがあったら、上辺だけでもいいから、もう少し仲睦まじい会話を繰り広げてほしいものだ。無理だろうけど。
――さて、無駄で無意味、おまけに非建設的な、しかし、だからこそ有意義でもある思考をするのはここまでだ。
俺はそろそろ、『歪み』の位置の特定に精神を集中することにした。
我が妹の怒りを買うことにはなるだろうが、それでもスピカと『歪み』が対峙することになる前に、その『歪み』をなんとかするために。
……まあ、本当なら。
スピカが『歪み』と対峙したうえで退治できるのが、誰にとっても一番いいんだろうけどな。……こういうのをこの国では『オヤジギャグ』とか呼ぶんだったっけか?
○式見蛍サイド
それは、なんか色々あった今日もやっと終わった、あとはマルツを連れて帰るだけだ、と撲が教室で帰り支度を始めていたときのことだった。
「ケイくん、ユウさん! やっぱりここに居たんだね! いや、ちゃんと『視』てから来たわけだから、当然なんだけど!」
……なんだ? ニーナ、やってきて早々、自分で自分にツッコミ入れて……。
思わず呆然としてしまった僕に、ニーナはやたらと切羽詰った――青ざめた表情で叫んできた。
「屋上で大変なことが起こったんだよ!」
「…………。まあ、起こったな。りんの飛び降り――」
「そうじゃなくて! 現在進行形で!」
「現在進行形……?」
「そう! この世界の大気と同化して、その状態で見物しようと思っていたんだよ、二人の仲が進展するかどうか!」
……なんか、言ってることが支離滅裂じゃないか? ニーナ。それだけ焦っているってことだろうか。
ともあれ、僕は疑問に思ったところを、ややオウム返し気味に尋ね返す。
「進展? それに二人って?」
その問いにニーナは額に汗を浮かべながら僕から顔を背けた。さては、またなんか企んでたな……。
「あ、いや、それは別にいいとして……。とにかく、そしたら屋上でサーラさんが……サーラさんたちが……!」
…………。どうも、冗談抜きに大変なことが起こっているらしい。事情を聞きだしている時間も惜しいかと思い、僕はニーナに「わかった」と答え、席から立ち上がる。ちなみに、彼女の後ろには先輩、マルツ、りんの三人が控えていたのだが、しかし、三人ともニーナほど深刻な表情はしていなかった。先輩に至っては半信半疑の表情ですらあるし。それでも、
「行こう、屋上に。急いだほうがいいんだろう? ――ユウもいいよな?」
僕はニーナにそう返した。ユウがうなずくと同時に、全員で教室を出る。
けど、一体なにが起こったっていうんだ……?
――なにが、どうなってるんだ……?
屋上に来て、一番最初に思考したことは、それだった。
顔を真っ青にしているサーラさんが、仰向けに寝転がった状態の鈴音の隣に座り込んでいる。お腹を呼吸と共に規則正しく上下させ、目を閉じている鈴音の隣に。
しかし彼女は、ただ寝転がっているだけというわけでも、眠っているというわけでもない。気絶しているのだ。まあ、頬が健康的な赤みを帯びているから、命には別状なさそうだけど。というか、サーラさんの蒼白具合が彼女のそれと対照的で、むしろサーラさんのほうが心配になってしまうくらいだった。
屋上に居たのはもう一人。
やってきた僕たちを一瞥したスピカ・フィッツマイヤーさんが、とても悔しそうに表情を歪め、床を凝視している。
本当、一体ここでなにがあったんだ? わからない。鈴音とサーラさん、そしてフィッツマイヤーさんまでもが、わざわざ立ち入り禁止のはずの屋上にいる理由も謎だし、鈴音が気絶するに至ったいきさつだって、まったく想像できない。
もちろん、引っかかるところがないわけではなかった。横たわる彼女の制服の腹部に、ほんのわずかな切れ込みが入っているのだ。そしてそこから、これまた本当にちょっとだけ、まるでそういう色の細い糸が一本、制服の上に乗せてでもあるかのように、鈴音の白磁を思わせる白い肌が覗いている。さらに目を逸らさずによく見てみれば、その周辺にある生地には血が滲んでもいるような……?
僕が思考をそこから先に進めようとしたときだった。
「んぅ……」
起きぬけを思わせる声を漏らし、鈴音が目を覚ます。
「鈴音ちゃん! よかった! 痛いところはない!?」
一番最初に声をかけたのはサーラさん。鈴音は少しだけボンヤリと彼女の顔を見ていたが、突然、跳ね起きるように身体を起こし、なぜか「……っ!?」と目を見開いて、座ったままの姿勢であと退った。
「い、一体どうした? 鈴音?」
「え……。け、蛍……?」
まだ思考が働いていないのだろうか。彼女は僕を見て目を白黒させる。それからまた、瞳に怯えたような色を宿し、警戒するようにサーラさんのほうに視線を移した。……いくら状況をいまひとつ理解できないからといっても、彼女にそんな反応をするのはどうかと思う。もっと言えば不自然だ。そりゃ、鈴音は確かに唐突な事態には弱いけれど……。
「なあ、鈴音――」
フィッツマイヤーさんを視界に認めたのか、「スピカさん? なんで……」と呟く鈴音に声をかけた瞬間。
「サーラさんのほうは大丈夫なの!?」
問いかけるというよりも、ほとんど叫ぶに近いニーナの声に僕のセリフがさえぎられる。
「……え?」
しかし、それに反応したのは鈴音だった。彼女に怪訝な表情を向けられてからサーラさんは「うん、なんとか」と返す。……なんか僕、すっかり蚊帳の外?
誰からでもいいから、状況を説明してくれないだろうか。なにせ、いまこの場には、ユウに鈴音、先輩にマルツ、ニーナにサーラさん、そしてりんにフィッツマイヤーさんと、僕を含めて九人もいるのだから、その人物には事欠かないはずだ。…………。うん、それにしても、改めて数えてみると、なんて人数だ……。
○スピカ・フィッツマイヤーサイド
『歪み』を追ってここに足を踏み入れ、急ぎ足で角を曲がったわたくしの目に飛び込んできたのは、うつ伏せに倒れたまま意識を失っている神無鈴音と、その彼女へとナイフを振り上げている本来存在しえない髪の色を持つ女性の姿。そんな光景でした。それも、青い髪の女性のほうにはわたくしが追って来た『両腕が存在しない霊体』が憑依しています。
胸のうちにあった感情は、当然、驚き。
しかしそれは、その光景に対するものではありませんでした。いえ、それにも当然驚きは覚えましたが、それ以上に、わたくしは青い女性の状態にこそ驚愕したのです。
彼女はナイフを振り上げた姿勢のままで『硬直して』いました。全身をわずかに震わせ、けれど完全に意のままにはならないと、憑依されてなお、抵抗を続けていたのです。
わたくしはそこで我に返り、
「alleluia!」
と、その霊体――『歪み』に干渉。彼女から『歪み』を引き剥がしました。彼女が持っていたナイフがカランと床に落ちる音がします。
意に介さず、わたくしはそのまま干渉を続けました。ええ、逃がしてたまるものですか。『外的要因』のない状態で浄霊に二度も失敗するなど、わたくしのプライドが許しません。今朝の失敗を思い出し、内心で歯噛みしながら、精神を集中させます。
わたくしの精神を揺さぶることが起こったのは、その瞬間でした。
「ぅ……」
『歪み』を引き剥がしたと同時に、コンクリートの床に膝をついていた彼女が頭を右の手で軽く押さえました。そう、彼女は悪霊の憑依が解かれた瞬間から、一瞬たりとも意識を失わずにいたのです。
しかも、それだけではありません。彼女はそのまま『心なしか少し頼りないような』程度の歩調で神無鈴音のところまで行くと、彼女の身体を仰向けにし、腹部の傷を確かめ始めました。まるで、自分が神無鈴音を傷つけたことを憶えているかのように。
稀にではありますが、憑依されても記憶を失わずに済む人間というのは存在します。そうした人間は総じて、精神力が高いことが共通点に挙げられていますが、まさか現実にそんな人間を見ることになるとは、正直、思っていませんでした。なにしろ、憑依に抵抗していたこと、『歪み』が身体から出て行った瞬間から意識を失わずに済んでいることだけでも驚愕に値するのですから。
白状しますと、わたくしはもうこの段階で、『歪み』にほとんど意識を向けておりませんでした。わたくしの気を逸らすほどの『外的要因』があったとはいえ、それに関しては言い訳する気はありません。
彼女は仰向けにした神無鈴音の腹部に手をかざしました。そうしている光景は、以前なにかの本で知った『気功療法』にも似ており……。
やがて、彼女は何事かを小声で呟き始めました。どこかで聞いたことのあるような言葉です。英語に近いでしょうか? しかし、ひとつひとつの単語はそれに近いものの、文法がまるで通りません。だとするとドイツ語でしょうか? しかし、ところどころドイツ語にも存在しない単語や文法が交じっています。ならば、オランダ語……?
首を傾げていると、彼女は数秒ほどで呟くのをやめました。そして、先ほどまでよりは力を込めて、再び、一言だけ発します。
「――神の祝福(ラズラ・ヒール)」
それだけからは、日本人が日常的に使っている言葉の響きを感じました。日本人がよく使う『英語と日本語を混同させた』ような、そんな言葉。
しかし、口にされたその言葉が虚空に溶け消えると同時。淡い光が彼女の両の掌と神無鈴音の腹部にある傷口を包み込みます。
それは、とても不思議な現象でした。見たところ浅いものであるとはいえ、神無鈴音の傷口がみるみるうちに塞がっていったのですから。例えるのなら、その現象はビデオの逆再生に近かったでしょうか。
わたくしの目には、それはやはり『気功療法』に映りました。しかし、あれはここまで強力な効果は発揮しないはずです。
ならば着眼点を変え、現象そのものではなく、この現象を引き起こしたと思われる『神の祝福(ラズラ・ヒール)』という単語に着目してみるべきでしょうか。
『ラズラ』というのはわかりませんが、『ヒール』ならば見当がつきます。おそらく、『ヒーロー』の対極である『悪役』を指しているか、ハイヒールなどの『ヒール』のことなのでしょう。
…………。
なんだか、余計に意味がわからなくなってしまいました。『ラズラ』と組み合わせることで意味がガラリと変わるのかもしれませんが、しかし、それにしたって……。
これは、現象そのものから目を逸らすな、ということなのでしょうか。ふむ、いま目の前で起こった現象は端的に言葉にすれば『回復』、あるいは『治療』。だとすると……。
そういえば、英語には『癒し』という意味の単語に『ヒーリング』というものがあったはずです。もしや、『ヒール』というのはこれを簡略化、あるいは短縮化した造語……?
……もし、仮にそうだったとしても、あの現象をどうやって起こしたのかの説明にはなっていない気がしてきました。ここは、現象でも単語でもなく、『神の祝福(ラズラ・ヒール)という単語を発した』という行動に着目するべきなのかもしれません。
あれを一言で表すとすれば『言霊(ことだま)』でしょうか。『口にした言葉には力が宿る』というあれ。
霊能力はこの『言霊』を使用することが非常に多いですから、これに関する知識はわたくしにも豊富にあります。事実、口に出すことによって、瞬時に身体と精神を霊能力を扱うのに最適な状態に持っていく『alleluia』も『言霊』の一種ですし。ああ、九樹宮家の『オン』もそうでしたわね。
だとすると、あの『神の祝福(ラズラ・ヒール)』という単語を用いることによって、あの『傷を癒す』という『力』を発動させたのでしょうか。ともすれば納得できてしまえそうなのですが、ところが、この推測にも矛盾があることにわたくしはすぐ気づきました。
わたくしの『alleluia』と同じく『言霊』を用いたというのなら、あれは霊能力だということになります。しかし、あれは霊能力ではありえません。なぜなら、彼女はあの力で神無鈴音の『物理的な怪我』を治してしまったのですから。霊能力を行使して物理的なダメージを与える描写がされているマンガや小説などが氾濫しているせいか、日本人には特に勘違いされやすいですが、本来、霊能力というものは精神に干渉することしかできません。物理的な干渉は一切、不可能なのです。
しかし、だとすると彼女のあの『力』は一体……。
私はそこで初めて、『歪み』から完全に気を逸らしてしまっていたことに――つまり、またあの霊体を逃がしてしまったことに気づきました。……おのれ、いくら『外的要因』があったとはいえ、一度ならず二度までも……!
そして、それからさして間を置かずに、式見蛍たちが屋上に現れました――。
○式見蛍サイド
「本当に、ごめんね。なんとかナイフの刺さりを甘くすることはできたけど、それが精一杯で……」
ところどころ、フィッツマイヤーさんやニーナに助けてもらいながら説明を終えたサーラさんが、鈴音に深く頭を下げた。一体、これで何度目になるだろうか。別に、彼女が悪いというわけでもないというのに……。
それにしても、まさか、またあの悪霊がここにやってくるとは思わなかった。……いや、僕の『霊体物質化能力』を狙って、僕のところに来る可能性は若干、考えていたのだけれど。
正直言って、あの悪霊の行動目的というか、パターンがまったく掴めない。なんというか、一貫性がないのだ。もちろん、幽霊の行動パターンに一貫性を求めるなんてこと、本来ならするべきじゃないのだろうけど……。
それでも今回の場合、奴は僕の『霊体物質化能力』の効果を受けている。だから仮にあの悪霊がここに戻ってくるとしても、僕以外の人間は狙われないだろうと踏んでいた。
しかし、僕の『能力』のことを知ったあともサーラさんにとり憑いてみたり、かと思えば僕がやってくる前に逃げ出したりと、まるで意識して一貫性のない行動を続けているようにも感じられた。
……いや、一貫性はあるのか?
通常、ありえないことだとは思うけど、僕という存在から遠ざかろうとしているのなら? 僕と接触を持ちたくないとあの悪霊が望んでいるとしたら?
…………。
やっぱり、それは無意味な仮定だと思えた。だって、僕のこの能力は『すべての霊にとっての悲願』らしいのだから。形は様々だけど、幽霊にとっての『救い』になる能力なのだから。ユウが僕と触れ合えることで『存在している実感』を得られているように。
だったら、わざわざ僕を避ける必要なんてない……はず。
「気にしないでください、本当に。大事には至らなかったんですし。それに、霊能力者である私が気づけてさえいれば防げる事態だったんですから」
サーラさんに恐縮しきった様子で応じる鈴音の声が聞こえ、僕は思考を中断、意識をそちらに向けることにする。
「――それで、これからどうする?」
フィッツマイヤーさんのように自分から探してまで悪霊と戦いたいなんて、僕は思わない。普段なら。
大体、フィッツマイヤーさんがなんとかしてくれようとしているのだから、彼女に任せたまま帰宅してしまうのも選択肢のひとつではあるのだ。というか、普通の学生なら普通、そうする。ゴーストバスターや英雄を気取るつもりなんて、僕にはないし。
でも、これは僕の中の問題だった。サーラさんにとり憑き、鈴音を傷つけた――二人の心を傷つけたあの悪霊を、僕はとても放っておけそうにない。
仮に、あの悪霊に対する恨みなどがなく、とりあえずは放っておける精神状態にあったとしても、だ。その選択をした先では、僕の知らないところで鈴音たち――場合によっては先輩までもが危険な目に遭う可能性が残される。その可能性を否定できないまま、心配で仕方ないまま、だというのに自宅で待機しなければならなくなるかもしれない。そんなの、僕は絶対にごめんだった。
だから、僕は彼女に尋ねた。
「フィッツマイヤーさんは、あの悪霊がどこにいるかわかるんだよね? だったら僕も一緒に行かせてもらえないかな? 少しくらいの戦力になら、なると思うからさ。少なくとも、足手まといには絶対にならない」
これでもレベルの高い悪霊に勝利してきた僕だ。鈴音が言うには『反則技で勝っているようなもの』らしいけど、それでも勝ちは勝ちだし、そもそも命のかかった戦いに反則もなにもないと思う。
フィッツマイヤーさんは、しかし、すぐにはうなずかなかった。険しい表情のまま目を瞑り、考え込んでしまう。でも、その表情からなんとなくわかった。彼女の思考は、僕が『戦力になるか否か』ではなく『僕の身にどれだけの危険が及ぶか』を中心に回転しているのだろう、と。
少しの間、誰も口を開かない沈黙の時間が続く。そして、それを破ったのはフィッツマイヤーさんではなく、
「わたしも行かせて、スピカちゃん」
サーラさんだった。『ちゃん』付けされたからなのか、目を開けたフィッツマイヤーさんの表情がなんともいえない感じに歪む。
「あ、あなたね――」
「お願い。わたしが言っても説得力ないかもしれないけれど、足手まといにはならないから」
「すさまじく説得力がありませんわね……。ついさっきまで憑依されていた人間がどの口で――」
「でも! 確かに説得力はないし、あまり戦力になるとも言えないけど……。それでも、このまま引き下がるなんてできないの! わたしが自分でケリをつけたい、とも言わない! ただ、あの悪霊が倒れるのを見届けたいの! でないと……そうじゃないと、わたし、鈴音ちゃんに顔向けできない……!」
ああ、そうか。サーラさんは現在、鈴音と同じ家で暮らしている。とはいえ、ニーナの魔法力が戻るまでの間だから、長くてもあと数週間くらいしか一緒に過ごさないはずだ。だけど、いくら悪霊にとり憑かれてやったこととはいえ、同居させてもらっている人間を自分が刺したというのは、やはり耐え難いものがあるのだろう。
そういった罪悪感を失くすために、彼女はせめて悪霊と対峙する場にいたいに違いない。……やっぱり、あの悪霊はサーラさんの心を少なからず傷つけている。おそらくは、偶然そうなったに過ぎないのだろうけど。
そんなサーラさんを援護するようにユウにマルツにニーナ、りんや先輩まで僕たちに同行すると言い出してくれた。正直、先輩は行かないほうがいいんじゃ、と思ったけれど、この雰囲気をわざわざ僕が壊すこともないだろうと呑み込むことにする。
そして、もちろん鈴音も「私も行きます」と宣言した。
フィッツマイヤーさんは根負けしたように嘆息してから、僕たちを見回した。
「わかりました。まずサーラさん。あなたにはわたくしたち霊能力者とも蛍の『歪み』ともまったく違った『力』があるようですわね。瞬時に人間の傷を癒してしまえる、とても神秘的な力が。『歪み』を追いかける道中、それがどういうものなのか教えていただけるのなら、同行を許可します。いえ、場合によってはむしろ一緒に来て欲しいくらいかもしれませんわね」
「じゃあ、ボクたちもいいんだね!」
両手をグッと握りながら、ニーナ。
「多分、精神力と魔法力を消耗しているサーラさんよりも役に立つよ、ボクとマルツくんは。リル――じゃなかった。りんはどうかわからないけど」
「あなたがたがフォローするというのなら、わたくしに否はありませんわ。それより、あなたたちも彼女のような『力』を使えるのですか……」
顎に手をやり、「世界は変なところで広いのですわね……」となにやら感心し始めるフィッツマイヤーさん。数秒ほどそうして気が済んだのか、彼女は次に僕へと目を向けてくる。
「蛍に関しては、あなたの『能力』の異常さを、具体性をもって確かめられるチャンスかもしれませんね」
「僕、こんなときまで観察されるんですか……」
苦笑交じりに笑う僕。しかし、その表情は明るかったと思う。だって彼女のセリフは、その声色からして、僕の同行を認めるための口実に過ぎないように思えたから。
「さて、あなたは……」
先輩に向き直り、フィッツマイヤーさんがなぜか言葉を止める。すると彼女はそれだけでなにかを察したのか、
「ああ、紗鳥だ。真儀瑠紗鳥」
「そうでしたか。では真儀瑠紗鳥。――すみませんが、一般人であるあなたを連れて行くのは、やはり危険だとわたくしは判断させていただきました」
そう言われるのは予想していたらしく、先輩はまったく表情を変えなかった。しかし、なにもせずに帰って大人しくしていろ、と言われて『はい、そうですか』と引き下がるつもりがないのも、その雰囲気から見てとれる。……しかし、よりにもよって先輩を『一般人』と認識するとは……。もちろん間違ってはいないのだけれど、それでも初対面というのは恐ろしいものだ。
そんな彼女に、フィッツマイヤーさんが肩をすくめ、どこか諦めを含んだ口調で続ける。
「ですが、大人しくしていろ、と言うつもりはありません。あなたには、ちょっと頼まれてほしいことがありますので」
「頼まれてほしいこと……?」
「ええ。大人しくしていろと言われて、言葉どおり大人しくしているつもりなど、あなたにはないでしょう? だったら、この件に関わるな、などと言うのは無意味です。また、納得したふりをして勝手に動かれてもたまりません。なら、比較的危険の少ない役割についていただこうかと思いまして」
「……ふむ、わかった。で、その頼まれてほしいこと、というのは?」
「先ほど感じたのですが、どうもわたくしの兄が日本に来日したようなのです。
もうあの霊体の位置を把握したのか、さっそく動き出していますから……。……そうですわね、この学校の最寄り駅に向かえば合流できるでしょう。
おそらく、今回の一件、わたくしの手には負えないと判断したのでしょうね。まったく、性急なことです。そんなにわたくしが信用ならないというのでしょうか……!」
見ると、いつの間にやらフィッツマイヤーさんの右手が、下げられたままで握り拳を作っていた。しかもぷるぷると震えてもいる。どうやら、かなり怒っているようだ。……声もすごく忌々しげだし。実際、先輩が少し引きつった表情で「わかった」と返したのにも気づいてないっぽい。
そんな彼女に、わざわざ鈴音がフォローを入れる。ああ、よせばいいのに。
「そんなことは、ないと思いますけど……」
フィッツマイヤーさんにギロリと睨まれ、彼女は口を閉ざした。しかし、女の子が出す擬音じゃないだろう、ギロリって。いや、鈴音もときどき出しているけどさ……。
気を取り直すようにコホンと咳払いをひとつすると、鈴音は屋上の入り口へと足を向けた。
「さ、さあ、じゃあ早く行きましょう!」
「お待ちなさい。行くにしても、まずはわたくしが『歪み』の位置を特定してから、でしょう」
「あ、そ、そうでした。すみません、先走っちゃって……」
多分に照れを含んだ笑みを浮かべる鈴音。しかし、それも次のフィッツマイヤーさんの言葉で凍りつく。
「それに、わたくしにはあなたを連れて行くつもりはありません」
『え……?』
そこにいた、ほぼ全員の声が重なった。……フィッツマイヤーさん、いま、なんて……?
「神無鈴音、あなたはここに残りなさい。――はっきり言って、足手まといです」
――足手、まとい……? よりにもよって、霊能力者である鈴音が……?
「わたくしの見たところ、あの霊体はかなりの霊力を持っています。それも、悪意的なものを。――もちろん、『完全憑依型』ほどではありませんが、しかし、それでも厄介な相手であることに変わりはありません」
「…………」
フィッツマイヤーさんの辛辣(しんらつ)ともとれる物言いに、うつむいて黙り込んでしまう鈴音。けれど、それを目の当たりにしても、金髪碧眼の霊能力者は言葉を重ねるのをやめようとしなかった。
「今朝のこと、忘れたわけではないでしょう? あなたの霊力であれをどうにかすることは、ほぼ不可能です」
「で、でも……」
言い募ろうとする鈴音に、彼女は「それに」とサーラさんへと一度視線を向け、
「あなたは彼女に言いました。私が気づけてさえいれば防げる事態だったんですから、と。――まさしくその通りです。彼女と対峙したとき、誰よりもまず、あなたがあの霊体の存在に気づくべきでした。それすらできなかった霊能力者に加勢されましても、わたくしにとっては迷惑でしか――」
「鈴音!!」
果たして、彼女にはどこまで聞こえたのだろう。鈴音はフィッツマイヤーさんのセリフの途中で、「っ……!」と唇を噛んで、逃げるようにその場から駆け出していってしまった。
「……フィッツマイヤーさん!」
思わず、フィッツマイヤーさんに詰め寄る。ありえないくらいに近い距離に彼女の顔があったけれど、そんなこと、微塵も気にならなかった。意識する余裕なんて、なかった。
「どうしてあんなことを……! 鈴音だってそれなりの霊能力者で――」
「では問いますが、蛍」
怒り心頭といった状態の僕とは正反対の落ち着き払った態度で、彼女は僕に訊いてくる。
「あなたは神無鈴音のことを大切に思ってはいないのですか?」
「――な……?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。なんでそんな質問をされたのかが、わからなくて。
フィッツマイヤーさんはこれには特に返答を期待していなかったのか、一歩引いた僕に更に問いを重ねてくる。
「霊能力者が霊体と戦う術は、存じてますわよね?」
「そ、そりゃあ……」
以前、鈴音から聞いたことがあった。悪霊をどうにかするには、結局、その悪霊の持つ霊力を上回るそれをもって挑むしかないのだと。僕のような戦い方は先ほども述べた通り『反則』で、本当に『例外』なのだと。もちろん、鈴音にしてもらった(というより、強制的に聞かせられた)説明だから、僕のよく憶えていない、こまごまとした理論とかもあったと思うけど。
僕のその返答に、彼女は神妙な面持ちのままうなずいてみせる。
「その通りですわ。さすがは神無家の次女、知識は一流といったところですわね。
それを踏まえて、蛍。彼女は精神集中を邪魔する『外的要因』がない――おそらくは油断もない状態で、彼女はあの霊体の『引き剥がし』に失敗しています。
いいですかしら? 浄霊に失敗したのではなく、憑依を解かせることに失敗したのですわよ? 蛍、これがなにを意味するか、あなたにわかりますか?」
正直、認めたくはなかった。けれど、それに答えないわけにも、いかないわけで。
「…………。あの悪霊の霊力は鈴音よりも上、なんですね……」
絞りだすように口にした僕に、フィッツマイヤーさんは「そういうことですわ」と首を縦に振った。
「別に、神無鈴音のことを無能だとは言いません。彼女はむしろ、平均を上回る霊力を持っていますわ。それでも、霊能力者と霊体の戦いは己の持つ霊力がすべて。一度失敗している以上、彼女に勝ち目はない。そういうことです」
つまり今回は、相手が悪かった、ということなのだろう。一が二に勝てる確率はゼロだから、それなら戦わないほうがいい、と。フィッツマイヤーさんの評価からして、鈴音のことを『一』に例えるのは、なんか失礼な気がしたけれど。
「それとも蛍、あなたは彼女が勝ち目のない戦いにおもむいて、死ぬことになってもかまわないと思っているのですか? その程度の、浅い友人なのですか?」
「そんなわけ……!」
「ですわよね。ではあなたは、そんな大切に思っている友人に、死地におもむいて欲しいと思えるのですか? たとえ一時的に傷つけることになってでも止めたいと、そう思わないのですか?」
「…………」
彼女の、その答えがわかりきっている問いに、僕は沈黙だけで答えた。そして、フィッツマイヤーさんとしても、それで充分なようだった。
本当は、なんとなくわかっていた。
言いすぎな感は、否めないけれど。それでも彼女は、鈴音のことを案じたからこそ、ああいうことを口にしたんだって。一番損な役割を――憎まれ役を買ってでたんだって。
もちろん、僕たちは誰一人、彼女にそんな役割を演じて欲しいなんて思っていなかったけれど。彼女が勝手にやったことではあるけれど。それでも……。
「……さて、ではいい加減、行動に移ることにいたしましょうか。――まず、真儀瑠紗鳥。わたくしの兄の外見的特長ですが――」
ウェーブのかかった腰くらいまでの金髪とか、瞳の色は青だとか、あと常に緩んだ表情をしていることとかを、フィッツマイヤーさんが可能な限り悪しざまに先輩に説明する。……どうやら、兄妹仲は相当悪いらしい。
「では、頼みましたわよ。私たちとの合流のタイミングとしてベストなのは、わたくしがあの霊体を浄霊させようとしている最中、というところですわね。それならわたくしが決して無能ではないところを、お兄様に見せつけてやれるでしょうから」
なんとも細かい指示を出す金髪碧眼の霊能少女。まあ、先輩だったら本当にそのタイミングで合流してきそうでもあるけど。……って、ちょっと待った。
「あの、フィッツマイヤーさん。なんだかんだ言って、先輩の役割もかなり危ないものなんじゃ……? フィッツマイヤーさんのお兄さんと合流したあとならともかく、先輩が一人でいるときに、もしあの悪霊に襲われたら……」
「まあ、可能性はゼロとは言えませんわね。でも霊というのは『霊を見ることができない存在』には、あまりちょっかいをかけようとしないものですから、それほど危険ではないと思いますわよ。合流したあとはお兄様のせいで襲われる可能性が出てきますけど、あの『神無家の天才』に勝るとも劣らない実力を持つお兄様のことですから、あの程度の悪霊に負けることはないでしょうし」
自分の兄を信用してるんだか、なんなんだか……。
『神無家の天才』というのは、《顔剥ぎ》事件の際に電話で話したことのある鈴音のお姉さんのことだろうか。
いや、それよりも、だ。
「だったら、鈴音も先輩と一緒に行動させればよかったんじゃないですか? いま、軽く行方不明状態ですよね? 家に帰ったとは思いますけど、それも憶測でしかありませんし」
「…………」
フィッツマイヤーさんの表情が引きつった。これでもかというほど引きつった。……ええっと……。
「…………」
「…………」
「……フィッツマイヤーさん?」
「…………。……そ、そう言われてみれば――」
「いや、そうとも言えないぞ」
ようやく口を開いたフィッツマイヤーさんの言葉を先輩が遮る。
「私が悪霊に狙われないのは、『私には悪霊が見えないから』なのだろう? しかし巫女娘が一緒にいては、結局、襲われやすくなってしまうはずだ。フィッツマイヤーのお兄さんと合流したときと同じ理屈で、な。なら、私にも巫女娘にもメリットはない。むしろデメリットばかりだ」
「そう! その通りですわ! わたくしはちゃんとそこまで考えて――」
「なかったでしょう、フィッツマイヤーさん」
「だろうな。私のほうはともかく、巫女娘が悪霊と遭遇した際の安全性は微塵も保証されていないのだから」
すかさず突っ込んでやる僕と先輩。彼女は「うっ」と詰まってから、すぐに「申し訳ありません……」と僕に頭を下げてきた。それも、かなりしょんぼりと。……なんか、意外。りんが悪霊にとり憑かれる前に彼女が『逃がした』と素直に言ったときにも感じたけど、彼女、プライドが邪魔して、自分の非を素直に認められるようにはあんまり見えないんだけどな。実際、いまも先輩には頭を下げようとしていないし。
フィッツマイヤーさんは仕切り直すようにコホンとひとつ咳払いをし、
「では、わたくしたちはあの霊体の位置を特定し、お兄様よりも先に浄霊するといたしましょう」
「そのあとには、ちゃんと鈴音にもフォロー入れてくださいよ。お願いですから」
フィッツマイヤーさんが鈴音のためを思ってしたことだからこそ、そのことで鈴音に誤解されたままになってしまうなんて事態は避けるべきだ。彼女はぷいっと横を向いて「ふぉ、フォロー? なんのことですかしら?」と額に汗すら滲ませながら、しらばっくれてきたけれど。
……やれやれ。こういう人のことを『ツンデレ』って呼ぶのかな。
○九樹宮九恵サイド
私は基本、学校の帰りに寄り道というものをしない。
理由は単純で、特に寄りたい場所も、一緒に寄り道をするような友人もいないからだ。後者に関しては、特に欲しいとも思わないし。
寂しい人間だ、と思う人もいるかもしれない。ならば、私はこう問おう。上辺だけを取り繕った『その場だけ楽しい友達づきあい』というものにどれほどの価値がある、と。
反感を抱きたい人は抱いてくれてかまわない。結局のところ、それは価値観の相違なのだし、それを許容できない人間に好かれたいとも、私は思わない。
つまるところ、私はどこまでも協調性がなかった。それを努力で補おうとするつもりもないし、さしあたって友人が欲しいという欲求も湧いてこない。趣味だって、これといったものはない。ここまでないない尽くしなのだから、私に友人がいないのは道理だろう。
しかし、だからといって私は孤独を好んでいるわけでもない。いや、つい最近まではそうだと思っていたのだけれど、私にも他人を求める欲求があるのだということに、つい先日、気づいた。というか、気づかされた。
式見蛍。
私とよく似ている人間。けれど私とは違って、多くの友人がいる存在。
彼を初めて見たとき、私は『同類』に対する親近感のようなものを覚えた。
そして、それは彼が『死』を志向していると知っても、変わらなかった。むしろ、それがどんな環境、思考によって発生したのかを知りたいとさえ思うようになった。そして、いまでは……。
ふと、気づいたら私の足は商店街を目指して動いていた。……重症だ。今日もあのスーパーに行けば、あるいは彼に会えるかもしれない、なんてほとんど無意識下で思ってしまっていたようなのだから。
しかし、そこで昨日のことを思い出す。
そうだ。私は昨日、あのスーパーで万引きをしたことになっていた。さすがに昨日の今日でのこのことあそこに行くのはまずいだろう。
昨日の万引き事件。
我ながら安い気もするけれど、彼が私を信じてくれたあの瞬間、私の中で、なにかが決定的に変わった。親近感とか彼の思考を知りたいとか、そういう思いが全部いきなり、吹っ飛んでしまったのだ。
残ったのは、彼ともっと話したい、もっと一緒にいたいという思い。端的に表すならば、それは根拠のない確信を伴った、『この人だ』というもの。
そして私は今日、なんとか彼にまた会えないものかと、スーパーの周辺にこそ立ち寄らなかったものの、その『スーパーの周辺』の周辺をうろうろしていた。……果たして、これも寄り道のうちに入るのだろうか。
しかし、当然というべきか、残念ながらというべきか、彼は一向に現れなかった。所在なく電柱に背を預け、分厚い雲に覆われた灰色の空を見上げる。
「もう、いつ降ってきてもおかしくないわね……」
残念だけれど、今日は大人しく帰るべきだろうか。
実を言うと、私はなかなかに苛立っていた。待ち人来たらず、というのがその主な理由だけれど、それとは別に、
「今日は『力』の行使がやたらと多いわね。それに移動も激しいし……」
おそらくは黒江から聞かされた《見えざる手》が暴れまわっているのだろう。感じとれる霊力がそれを裏づけていた。どこにいても私の感覚に引っかかるものだから、正直、ハエが頭の上を飛び回っているのと変わらない。苛立ちもするだろう。
と、そこで気づいた。
《見えざる手》のことを私に教えたのは黒江だ。そして蛍のことを詳しく教えてくれたのも黒江。なら、《見えざる手》と蛍にもなんらかの繋がりがあるのではないか、と。
もちろん、繋がりなんてなにもないかもしれない。そもそも、痛いの苦しいのがイヤなんていう彼が進んで《見えざる手》に関わろうとするとも思えない。
でも、彼と会える可能性がゼロでないのなら、とりあえず『目印』くらいの役割は果たしてくれるのではないだろうか。……もちろん、『完全憑依型』並みの霊力を持つ悪霊にわざわざ会いに行くというのは、かなりぞっとしない行為ではあるだろうけれど。
「危なくなったら、逃げればいいわよね」
一度は撃退してもいるわけだし。
ともあれ、もう、じっとしているのは限界だった。体育バカが言いそうなセリフだけれど、身体を動かしていたほうがこの心を圧迫するような気持ちも紛れるだろう。
そうして、私は。
もうすぐ雨の降りそうな街中を、《見えざる手》の霊気を頼りに歩き出したのだった――。
○神無鈴音サイド
いつも使っている最寄り駅へと続く道。そこから、私は曲がり角ひとつ分だけ折れて駅を目指していた。
だって、いつもの道なんて、使えるわけない。もしあそこをぼんやりと歩いていたら、きっとシリウスさんと合流するために最寄り駅へと向かう真儀瑠先輩と会うことになる。
霊能力を持たないのに役割を与えられた彼女と、霊能力者なのに役立たずである私。
そんな現実を真儀瑠先輩の姿から教えられてしまったら、きっと、私は泣きじゃくってしまう。それこそ、周りの人の反応を気にする余裕もなくして。
だから、私はいつもの道を使うわけにはいかなかった。役立たずな自分を、私自身が直視したくなかった。
スピカさんが、私のために敢えてああいうことを言ってくれたのはわかっていた。
あの悪霊は、私じゃ対処できない。私が挑んでも浄霊なんてできないだろう。最悪、死ぬことだってありうる。
それでも、蛍のサポートならできるのでは、と思ってもいたけれど、それは同じ霊能力者であるスピカさんには理解できない思考だろう。
だから、彼女が私を見限ったのは当然――ううん、見限った、なんて思っちゃいけないのだろう。あれは、不器用な彼女なりに気づかってくれたととるべきなのかもしれない。……ちょっと、好意的にすぎるかもしれないけれど。
だけど、それがわかっていても、やっぱり傷つくことには変わりない。
自分の中にある無力感だって、消えない。
心の痛みだって、和らがない。
どうしたって、悔しいという気持ちが湧いてきてしまう。
でも、だからといって現実になにかができるわけでもない。悔しくても、悲しくても、そしてそれを大声で叫んだとしても、力がないという現実は変わらない。
いまの私は、ただの抜け殻――。
ぼやけた視界をそのままに、灰色の空へと目をやった。ぽつりと、頬に水滴が当たったから。
それからも、当たる。
ぽつり、ぽつりと。
水滴が、当たる。
最初のうちは、本当に、ぽつり、ぽつりと。
でも、段々とその間隔は短くなっていって。
ぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつぽつ……。
「っ〜〜……」
その雨は、まるで私の心情を代弁しているかのようだった――。
――――作者のコメント(自己弁護?)
どうも、今月は割と早くお届けできたのではないかな、と思っております、ルーラーです。なんか、そろそろ鈴音のファンに怒られそうな気がしていますが(笑)。
さて、状況を少しずつであっても確実に動かしながら、そこにキャラクターのいいところや悪いところを盛り込んだり、新キャラのほのめかしやスピカによる『魔術』の考察を入れたりと、色々とやってみましたが、いかがでしたでしょうか?
まず触れるべきはシリウスのサイドで出てきた『神無家のサムライボーイ』でしょうか。このキャラは名前こそ出しませんでしたが、自由気儘さんに投稿していただいた『R.N.Cキャラクター』です。ようやくキャラの役割(あるいは方向性?)が決まりましたので、ちょっと伏線を張る感覚で出して(?)みました。
それとシリウス自身もやっと日本の土を踏みました。とりあえず、これで第一章で活躍するキャラは全員、蛍の周辺に集まったかな、といった感じです。
次に、今回はスピカの一人称にも挑戦してみました。……なんか、回想シーンっぽくなってしまいましたが(苦笑)。
実は彼女の一人称を書いたのって、これが初めてではないのですよね。でも、前回(第一章の第二話)のスピカサイドはものすごく短かった上、『スピカの口調』を反映させずに書いたのですよ。なので、これがほとんど始めてのようなものだったり(笑)。
そうそう、スピカというキャラに関しては、こう、キツイことばかり言うけれど、他人の身を案じる気持ちは割とある、というイメージで書いています。なので、嫌うなら彼女の態度や口調だけで嫌いにならないで、その奥にある『心情』を少し理解しようとしてから嫌いになってほしいな、なんて思っていたりもします。……まあ、本当に嫌いなキャラの心情なんて、なかなか理解しようなんて思えないものですけどね(苦笑)。
そして、九樹宮九恵がようやく本筋に参戦です。万引き事件のおかげで蛍への好感度もマックス!
彼女の活躍にも期待していただけると嬉しいです。
あ、それとこの回でスピカがサーラの詠唱を聞いて、英語なのかドイツ語なのかオランダ語なのかと推測していましたが、『蒼き惑星(ラズライト)』の人間の呪文詠唱に用いられているのは基本、『ドイツ語を基にした造語』です。
実は『第七古代語』こと『上位古代語』を詠唱に用いる『古代魔術』という例外も存在するのですが(原案はshaunaさん)、まあ、それに関しては、また別の機会にでも。
さて、ではそろそろ今回もサブタイトルの出典をば。
今回もまた『スパイラル〜推理の絆〜』からです。ただしTVアニメ版。第二十一話からですね。
意味はそのまんまではあるのですが、鈴音視点です。第一章を鈴音メインでやるなら、彼女に肉体的・精神的にダメージある展開をやらなきゃ駄目だろう、という考えがありましたので、このサブタイトルは鈴音がどん底まで落ちる回で必ず使おうと決めていました。
つまり彼女にとって、ここがどん底です。これ以上は落ちない……はずです。あとは成長あるのみ。這い上がるのみ。なので鈴音ファンの方はお怒りを鎮めてください。お願いします。
次回はバトルを書くつもりです。なんか、なんだかんだでご無沙汰でしたよね、バトル。楽しみにしていただけると嬉しいです。……まあ、『蒼き惑星』の人間があまり魔術を使えないので、どこまでやれるかわかりませんが(苦笑)。
それでは、また次の小説でお会いできることを祈りつつ。
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