私たちの場所
著者:管理人


 功一は物心ついた頃には既に絵を描いていたという。
 そして、絵ができあがっていく過程を功一の隣でまじまじと見ていたことを、恵理はしっかりと憶えていた。もちろん、スケッチブックを手にしているときには決まって真剣な表情をしていた彼の横顔も。




 恵理と功一が初めて出会った日の翌日。
 真っ白なスケッチブックに、幼い功一は鉛筆で黒い線をいくつも引いていた。

 昨日――二人が出会ったときは、お互い緊張してしまっており、まともに会話もできなかった。
 そんな状況を意識せず変えたのは恵理だ。出会って二日目の今日、より正確に言うのなら、その午前中。恵理は功一がどこに行くのにも持ち歩いていたスケッチブックが物珍しくて、二つ年上の彼に話しかけた。どちらかといえば内気な性格である彼女にとっては、なけなしの勇気を振り絞ったつもりで。

 それが彼の心にどう響いたのかはわからない。当時の恵理は、そんなことをいちいち考えて行動するような年齢でもなかったのだし。
 ただ結果として、それをきっかけに二人は少しずつ言葉を交わし始め、その日の午後二時を過ぎる頃にはすっかり打ち解けた口を利くようにもなっていた。

「ねえ、功ちゃん。絵、できた?」

 ――そうそう、幼い頃の私は功一さんのことを『功ちゃん』って呼んでいたっけ。

「んー、あと少し。――よしっ、できた!」

 大事な大事な宝物であるかのように彼がいつも持ち歩いているスケッチブックを恵理は受け取る。

「どうかな……?」

 功一に訊かれて、彼女は一言、

「あたたかい絵。かわいいクマさんだね」

 その言葉に少年はガクンと肩を落とした。顔にはがっかりしたような、困ったような、なんとも複雑な表情が貼りついている。

「クマじゃなくてタヌキだよ、それ……」

「え……? でもこれ、黒いし」

「鉛筆じゃ茶色は出せないから……」

「…………。タヌキさん、なんだ」

「そうだよ……」

 功一はすっかり落ち込んでしまっていた。
 出来が悪いわけではないが、やはりそこは子供の描いた絵。決して上手とはいえないレベルのものだったのだ。少なくとも、当時の恵理の目にクマとして映るくらいには。
 しかし三歳の恵理にだって、思ったとおりに感想を口にしたせいで功一を傷つけてしまったことはわかる。だから彼女は素直に頭を下げた。後ろで二つに分けた髪が大きく揺れる。

「ごめんなさい……」

 ところが功一には恵理のその行動が意外だったらしく、焦った様子で両手を彼女のほうに向け、ブンブンと振った。

「そ、そんな……! というか、なんで謝るの!?」

 少女は頭を下げたまま、うつむいたままで「ごめんなさい」と繰り返すだけ。そんな恵理の目尻には涙が光っていた。

「恵理ちゃんが謝ることなんてないよ」

 泣き止ませようとしているのか、功一は優しい声で続ける。

「ほら、次に描くときは色鉛筆を使うから。――そうだ、恵理ちゃんは次、なにを描いてほしい?」

 少年の問いに、恵理は涙混じりの声で答えた。

「ぐすっ……。キツネ、さん……」

「キツネさんだね? よし、じゃあ約束」

「……うん」

 けれど、功一は明日、親に連れられて自分の家に帰るのだ。そして、自分たちが年端もいかない子供である以上、彼と頻繁に会うことは難しいだろう。いくら幼いとはいえ、それがわからない彼女ではない。だから、恵理はうなずいたあとも笑顔を浮かべることはしなかった。いや、できなかった。

 すると、功一がにっこりと笑いながら口を開いた。まるで、恵理の心を読んだかのように。

「僕は明日帰っちゃうけど、でも僕と恵理ちゃんはこれから、一体何回会うことになると思う?」

「うんと……。……三回?」

「もっとだよ。数え切れないくらい、何回も、何回も」

 恵理がうつむきがちな顔を上げ、目を輝かせる。

「遊びに来てって言ったら、功ちゃんは来てくれる?」

「もちろん。来ないでって言ってもお母さんと来ちゃうよ?」

「いいよ、それでも。だって、来ないでなんて言わないもん!」

「そっか。――ほら、次に会うときのことを考えたら、寂しくなんかなくなっちゃったでしょ?」

「――うん!」

 少女はようやく笑顔を浮かべた。もちろん、寂しくないわけではない。しかし功一の言葉からそれを我慢する力をもらったのだ。
 功一もまた、笑ってみせた。『寂しくなんかなくなっちゃったでしょ?』なんて言っておきながら、少しだけ、寂しそうに。

 夢を見ている現在の――十六歳の恵理は思う。まるで、この夢を見るのが初めてであるかのような心持ちで。
 きっと、功一の言葉は当時の恵理をなぐさめるためだけのものではなく。自分自身に言い聞かせる意味もあったに違いない、と。




 夢を見るのは浅い眠りのときだと、恵理は聞いたことがある。
 だから、なのだろう。眠りが深くなるにつれ、夢もまた、かすんで消えていった。
 いま見ていたのは、現実にあったことなのか、自分の心が作りだした幻想だったのかも定かではないままに――。




 十月八日、月曜日。
 功一が彩桜学園に到着すると、校門のところに恵理が立っているのが目に入った。

「あれ? 恵理ちゃん」

 功一は少し歩く速度を速める。

「――助かったよ。一人で部室まで行くの、なんだか気まずかったから」

 並んで昇降口へと向かいながら、苦笑い気味に礼を言った。

「じゃあ、よかったらこれからもあそこで待ってましょうか?」

「それは……」

 さすがに彼女にとって手間すぎるだろうと、功一はその申し出を断ろうとしたが、口に出そうとした瞬間、気が変わった。

「ん、それじゃ、お言葉に甘えさせてもらうよ。ちょっと悪い気もするけど」

 大学部と大学院の生徒、そして教師を始めとした大人たちを除けば、制服を着ている人間ばかりの学園内。そこを私服で一人、歩き回るというのはなかなかに気まずかったり、気恥ずかしかったりするのだ。まあ、もっとも、恵理と並んで校内を歩くというのも、負けず劣らず気恥ずかしくはあったが。

 恵理はそんな功一の気持ちを知ってか知らずか、やわらかい笑みを見せた。

「そんな、悪いだなんて。こっちのほうが功一さんにお時間をとらせてしまっているんですから、これくらい当然ですよ」

 やはり、ただの気遣いなのだろうか。
 実は彼女は、自分のことを憎からず思ってくれていて、だからこうした申し出をしてくれるのでは、と思ったことが過去、功一には何度もあった。


 ちなみに、これはあとでわかったことなのだが。
 恵理がわざわざ校門のところで功一が来るのを待っていたのは、友美に促されてのことだったらしい。




 第一演劇部の部室に着くまでというもの、功一は生徒たちからの視線が気になって仕方なかった。気分を害するとまではいかないまでも、恵理が自分に向けている感情がどうにも推し量りきれないため、お世辞にもいい気分とはいえなかったのだ。

 ぶっちゃけてしまえば、自分と恵理が恋人同士なのでは、というニュアンスが如実に含まれている周囲の目は、少々うっとうしいものがあった。

 ――女の子は特に好きだからなぁ、そういうウワサ話。

 恵理には気づかれないよう、こっそりとため息をつく。
 もちろん先日、詩織と一緒に歩いていたときにも少なからず視線は感じていたが、自分が意識している女の子と、そうでない女の子とでは、覚える気恥ずかしさに雲泥の差があった。
 もっとも、もう一人の当事者である恵理は、まったくといっていいほど意識していないようだが。

 ――やっぱり僕って、『いい人』で終わるタイプなのかなぁ。なにかの本に『いい人っていうのはただそれだけで、なかなか恋愛対象には見られない』って書いてあったもんなぁ……。
 ……って、いけないいけない、僕は一体なにを考えているんだ、さっきから。いいじゃないか、いまのままで。満足しているじゃないか、充分。これ以上を求めたらいけないっていうのに、僕は、まったく……。

 もう一度小さくため息をつき、功一はたどり着いた第一演劇部のドアを開けた。
 待ちかねた、という感じにこの部の部長――施羽 深空がイスから腰を上げるのが視界に入る。

「や、遅かったね」

「すみませ……じゃなかった。――ごめん」

 深空に軽くにらまれ、功一は慌てて言い直した。
 次に、ドアの近くにいた少女がぺこりと一礼。

「藤島さん、おはようございます」

「あ、詩織ちゃん。おはよう」

 功一が返すと、詩織はいたずらっぽく笑った。

「ひっかかりましたね、藤島さん。いまはもう放課後ですよ」

 なんとも幼稚なからかい文句だった。しかし、だからこそ少しばかりムキになってしまう。

「いや、ひっかかってないよ。だって僕は『詩織ちゃん、部室に来るのが僕よりも早いんだね』ってつもりで言ったんだから」

「え……?」

「『おはよう』の本当の意味は『今日もお早いですね』っていうものだからね。まあ、現代では朝とかにしか使えない言葉になっちゃってるけど」

 功一がしたり顔でそう口にすると、彼女は悔しそうに、

「……むぅ。うまく言い逃れられてしまいましたかね……。あと少しだったのに」

 もっとも、悔しそうなのは表情だけで、声には明らかに笑みが含まれていた。

 功一と詩織のやり取りに深空が割って入る。

「なぁにが『あと少し』よ。――にしても、なかなかやるわね、藤島くん。あっさり詩織を言い負かすとはねぇ〜」

 詩織の頭を軽くコツンとやる第一演劇部部長。

「この娘さ、ウチの部でアタシの次に口が達者なのよ。や、場合によってはアタシよりも、かな。どうあれ、言い合いになれば基本、敵なし。その詩織がまさか、ねぇ〜。――あ、亀の甲より年の功ってやつ?」

「人を年寄りみたいに言わないでよ」

「ははっ、悪い悪い」

 いたって軽い調子で謝ると、彼女は「じゃあ」と、散らばっているイスのひとつにどかっと座り、続けた。

「そろそろ、始めるとしようか」

 そう口にした深空の表情は真剣だ。ふと思い立ち、同じくイスのひとつに腰かけていた詩織の表情を盗み見る。彼女のそれも思ったとおり、深空と同じく引き締まったものに変わっていた。

 ――深空ちゃんはもちろんだけど、詩織ちゃんもやっぱり、演劇には真剣に取り組んでるんだな。

 初めて部室に来たときと同じようなことを改めて思いながら、功一もまた空いているイスに腰を下ろした。



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