苦痛と救いと少女の選択
著者:shauna


借りてきた猫……という言葉がある。
猫は自分の縄張りから新しい土地へと移されると、その土地に新たな縄張りを形成するまで広く動こうとしないという例えだ。

そして……
部屋の隅で壁に半身を預け、膝を抱えて小さくなりながら外を見つめ続ける彼女の姿はまさにそれと言えた。
「シルフィー……ご飯だよ」
そう言って、アリエスは静かに彼女の傍らにおかゆを置いた。
そして自分のために買ってきた容器入りの弁当を食べはじめる。
もちろん彼女より自分のほうが豪勢なものを食べるのは別にいじめているわけじゃない。


数日前……


今までロクな食事などしてこなかっただろうから、普段なら食べられないようなポップコーンシュリンプやらローストビーフやらスフレやらを買ってきてせめて好きな食べ物ぐらいは把握しようと考えたのだが……
それを数口食べた瞬間……
彼女は全てを不味いと言って吐いてしまった。

慌てて背中をさすると一生懸命謝りながら「あまりに、塩っぱくて油っぽくて辛くて……」と涙目でハァハァと息をした後に再び吐瀉・・・
よくよく考えれば分かることだった。
今まで薬物と最低限の栄養を取るための栄養剤。そしてそれ以外の食べ物も最低限のモノを与えられるだけ。現実に出て食べた物といえば腐ったものや味のついてない犬の生肉ばかり……
そんな彼女にいきなりたべものを与えたらどうなるか?
まず舌が受け付けない。もちろん胃も受け付けない。
散々謝られた後に、試行錯誤して、唯一彼女が食べられたのは蜂蜜を入れたホットミルクだけ……
だが……その時の……あのミルクを飲んだ時の彼女の表情はたぶん一生忘れることはできない。始めて口にして美味しいと思ったものを食べられた時のあの・・・信じられないぐらいに幸せで綺麗な表情……
その時生まれて初めて人に喜んでもらう幸せってのを感じた。
今までは人を不幸にするばかりで……
人を殺すばかりで……遺族を増やすばかりで……
その後こっそりトイレに篭って泣いたりした。
そんなわけで彼女に与える食べ物は常に消化に良い食べ物。おかゆとかヨーグルトとかそういった風邪の時に親が出してくれるようなもの。
レシピを覚えていてよかったと思う。油を使った料理や味の濃い料理は食べられないけれど、消化の良い料理はおいしそうに丁寧に味わって少しずつ少しずつ時間をかけて食べてくれた。本当に幸せそうな顔で・・・出来損ないみたいなおかゆを「甘くて美味しい」と言いながら食べてくれた。

でも……

「おかゆが甘い……か……」

アリエスはそうつぶやき嘆息した。

彼女にはお米ですら甘いのだ。今までどれだけ酷いものを食べてきたかかがわかる。
腐ったものを食べても平気で、豪華な料理は食べられない。蜂蜜ホットミルクや味付けなんて上に乗った鮭フレークぐらいしかないおかゆに甘さを感じる……
そんな生活を無理やり強いられて生きてきた。いや違う……その道でしか生きられなかったのだ……
あのヴェルンドと言う研究者が言っていたように、彼女は生体兵器でしかない。つまり、彼女はあの国では誰一人人間として見ていなかっただろう。少なくとも彼女を取り巻く環境に居た人々は……
好きな時間から好きなだけ眠ることも許されず、好きな食べ物を食べることすら許されず……
欲求というものが満たされることはなく、幸せなんて味わったことのない人間……それが彼女……シルフィリアなのだとたった数日一緒に暮らしていただけなのにわかってしまった。
そして……だからこそ彼女を守りたいと思った。
幸せにしてあげたいと思った。

だって……

彼女と過ごす日々があまりにも素敵で幸せだったから・・・自分だけが幸せになっている気がしたから……

おかゆの後は今日はクラムチャウダーをマグカップで彼女に差し出した。数日の検証の結果ポタージュなどのスープ系は彼女の身体にも悪影響でないことを知った。
それを飲む様を見ながらアリエスは静かに微笑む。
本当に幸せな気分だった。
戦場で彼女と初めて会った時……あのときまるでパズルの最後のワンピースがぴったりと嵌るぐらいにピッタリと一目惚れって言葉がバッチリ嵌った。
でも・・・戦場で何度も戦う内に段々と嫌いになった。
彼女は大勢の仲間を殺し、大勢の仲間を拷問し、リアーネを傷つけたから……
でも、それも彼女の本心ではないことを知った時……改めて彼女に惚れ直した。
やっぱり面食いなんだとおもう。
だって彼女は本当に綺麗で可愛くて……
彼女を逃したら多分一生後悔する……本能がそう言っていた。
だけど……だから忘れてしまっていた……
あんな大切なことを……



  ※         ※         ※



そんな、甘い甘い新婚生活みたいなモノを送って3日後……
その間にいくつもの戦争があり、何度も出兵した。
でも、不思議と今までと違って辛くはなかった。
シルフィリアを隠していることで、シェリー様に対する後ろめたさはもちろん存在したが、それでも戦場で彼女と戦わなくていいという安心感となにより彼女が居なくなったことによる連合戦線の衰退。
今までが嘘のように……敵が弱くなったと錯覚してしまう程に……それぐらい彼女の居ない戦争は簡単だった。
それに……
家に帰ればシルフィリアが居るという事実。ペットが家に居る感覚なのかもしれないが、ほとんど喋らない彼女でも家に帰ると居てくれるという事は今までずっと一人だった自分にとって驚くほど幸せである事実に気が付かされた。



だが……
そんな生活を一週間程続けた時……
事件が起きた……



いつも通り家に帰ると、そこにいるのはいつも通り電気も付けずに待っている少女……
そのはずだったのに……



その日は……



ドアを開けて中に入ると足元に何か水分を感じた。嗅覚が同時に嗅ぎ慣れたモノを感じ取る。血の匂いだった。
慌てて電気を付けると、底に広がっていたのはまるで強盗殺人の現場……

家具は全てなぎ倒され、部屋中に本や服などが広がり、散らかし放題になった部屋。
そして、六畳一間の部屋のど真ん中で倒れているのは……
シルフィリアだった……


全身に掻き毟ったような痕を残し、全身と口から血を流し、うつろな目で……裸同然の格好で倒れている彼女……

とにかく見たままを受け入れるしかなかった。
どうしてこんなことに!!その言葉だけがただただ反芻された。
だが、ほぼ同時に脳内にヴェルンドのあの言葉が思い出された。

−そして……さらには彼女が優秀すぎた……定期的に薬の投与が必要になった−
−なにしろ常人よりも数十倍の情報処理によってあの戦闘力を生み出しているのでね……例えば魔術ひとつとっても的確に術式と相対距離と有効範囲を計算しなければ使えない……加えて戦闘中ともなれば敵からの攻撃回避や反撃のタイミングなど様々な重要課題が出てくる。よって、過度の情報処理能力に脳がおいつけないんだ−
―おいつけないと……どうなるんですか?−
−苦しむんだよ……激しい頭痛で……脳がオーバーヒート状態なわけだからね……高熱と吐き気と……とにかくすべての不快感が身体を襲う―

なんでこんなに大切なことを忘れていたのだろう……
彼女が生きるためには……あの薬……BRANDROSEという名前の高濃度な麻薬が必要だと言うことを……
そして彼女の現在の状態は、禁断症状に苦しみ尽くして、そして意識を失った……

「最悪だ……」
骨が折れる程の勢いで拳を床に叩きつけた。
彼女を助けるつもりだったのに……逆に彼女を苦しめてしまった。
それがとてつもなく悔しかった。

でも、こうしているわけにもいかない。悔しがっていても現状はなんら変わらない。
フラフラと立ち上がり、壁にかけてあった軍服の懐からカード型の通信機を取り出した。
「…………レーナルドさんですか……アリエスです……すみません、大事な話があります……シェリー様に取り次いでもらえませんか?」


  ※         ※          ※


「アリエス……あなた自分がなにをしたかわかってるの?」
事情を話し、シェリルに救援を求めた結果、数発殴られた後に死ぬほど怖い顔で言われた最初の一言がそれだった。
「…………すみません」

謝ることしかできなかった。

「……アリエス……あなたね……これがどれだけ高度に政治的な問題かわかってるの!?」
「…………すみません」
「……あの子は私達の仲間を大量に殺した殺人犯なのよ!!」
「…………すみません」
もう一発平手打ちがアリエスの頬を捉えた。
「まさかあなたがこんな大問題を引き起こしてくれるなんて……」
「……あの……シェリー様……」
「何?」
「もしかして……彼女を売って権利を取り戻す気じゃ……」

今度はグーのパンチがアリエスの頭を直撃する。

「見くびるな!!そんなことしたら、幻影の白孔雀が居なくなったってあの無能な女王はまた戦争の火種を大きくする!!そしたらもっとたくさんの人が死ぬ!!みすみす私がそんなことを許すと思うか!!」
「す、すみません……」
「まず問題なのは、あなたが平気で軍の回線で電話してきたこと!!盗聴されてるかもとか考えなかったの!?」
「あ…………」
まったくもってその通り。盗聴されている危険性は十分考えられたのに……そんなことにすら気が付かないなんて……
「次に、なんで私にすぐ連絡しなかった!!そこまで私のことが信用出来なかったの!?」
「いや……そういうわけでは……」
実を言えばそうなのかもしれない……彼女をシェリー様に引き渡したら……おそらく悪いようにはしないだろう……だけど二度と会えなくなってしまうような気がした。
だから……
「……すみません」
謝ることしかできない自分が嫌になった。
「それで、彼女は……助かるんですか?」
恐る恐る聞いてみると、シェリルは呆れたように首を振った。
「まだなんとも言えないわね。あなたから聞いた麻薬の話を元に精神安定剤や合法ドラッグをいくつか投与してみたけど、効果はいまいちだった。今は致死量ギリギリの睡眠薬でなんとか押さえ込んでる状態よ」
「…………」
「全部あなたのせいよ。アリエス。」
「…………」
「あなたが捕虜になる直前に連合の研究者から聞いた情報の調書は私も読んでる。もしあなたがもっと早く私に彼女の存在を報告してくれていれば手の打ちようは他にもあったかもしれない……」
「…………」
「あなたが彼女をいつ死ぬかわからない今の状態に追いやった」
「………………すみません……」

もう一度殴られた。

「私に謝ってどうする!?一番謝らなきゃいけない相手は他に居るでしょ!?」
これ以上ないぐらいに正論だった。
「…………彼女と……話せますか?」
しばらくの間を置いてシェリルがため息を吐く。
「5分間。それ以上は認めない。話を終えたら私とレーナルドからたっぷりとお説教」
「……ありがとうございます」
そして、アリエスは案内されるがままに隣の集中治療室へと足を踏み入れた。


そこには彼女が眠っていた。
ガラスと金細工で作られた花のように一片の欠落もない美しさは得てして蝋人形のようにも見えた。
死んでいるのではないかと言うほどに静かな彼女を見て、一瞬目を逸らす。
しかし、「……死にそびれてしまいました」という小さな鈴のような声にすぐに視線を戻した。
ベッドに横たわったまま、シルフィリアがこちらにサファイアの瞳を向けていた。
彼女の名前を呼ぼうと出しかけた声が喉に張り付き、ただただその瞳を見返した。
捕らえられ、衰弱しきった我が身を笑い……いや、すべてを諦念の彼岸に押しやり、いっそ清々しいほどの瞳だった。
胸がつまり、視界がにじむのを感じながら、アリエスはベッドの枕元に歩み寄った。バイタルサインを映し出す水晶板の下、シルフィリアは「こんな惨めな姿……余り見ないでください……」と薄く笑って、充血した目を天井に据えた。
「……ごめん……」
やっとのことで喉の奥から搾り出した声がそれだった。
「…………俺がしっかりしていなかったばかりに……こんな……こんな……」
「やめてください…………悪いのは全部、私です」
「違う……俺がもっと……ちゃんと気がつくべきだったんだ……」
「…………」
「許してくれなんて厚かましくて言えない……でもせめて……君の力にはなりたい……」
「力……ですか?」
「君が今後どうしたいのかを聞きたい……君を安定させるあの麻薬が欲しいなら今からもう一度連合の研究施設に忍び込んで……」
「無理ですよ……危険(リスク)が大きすぎます……あなたもご存知でしょう……」
「…………」
「私のことは気にしないでください……そして、あなたの真っ直ぐな心は、私などではなく、国のため、あの赤髪の彼女の為に使ってあげてください」
「…………俺は……」
「これからどんな現実に直面し、どんな局面に遭遇しても……“それでも”と言い続けなさい……あなたはあの赤髪の女性の部隊の若手エースでしょう……どっしり構えなさい……」
「…………」
「それがあなたの美徳。生まれもった力……あなたの根っこの部分の力です……だから……」
奥底に食い込んでくる言葉と視線はそこで苦悶の呻きに断ち切られた。
バイタルサインがアラートを告げ、身体を仰け反らせた彼女の顔が苦痛に歪む。瞳孔が萎縮し、彼女の手を握ろうとしたアリエスは逆に彼女の手に押し返されて尻餅をついた。
同時に続き部屋からシェリルとレーナルドが慌てて駆け込んできて、彼女の身体を抑えつけた。
「強心剤と精神安定剤!!あとコデインも!!急いで!!」とレーナルドを怒鳴りつけると、すぐに彼は注射の準備を始めた。
その光景をただただ壁に後退り、シェリルの背中越しに痙攣するシルフィリアの手足を見た。ブランケットと寝巻きを剥ぎとり、あられもない姿になったシルフィリアをシェリルが抑えつける。
「レーナルド!!この子筋肉をデフォルトで魔法強化してる!!並の力じゃ針が通らないわよ!!本気で突き立てなさい!!」
その言葉に戸惑いながらもレーナルドは頭上に注射器を両手で振り上げ、針が明かりに照らされて銀糸のように煌めいた。
何もできない……お前は彼女を苦しめるだけだ……
彼女の苦しそうなうめき声から……あるいは、脳内で何度も再生される責めの言葉から自らを守るように両手で耳を塞いでアリエスは廊下へと走り出た。
何が根っこだ……何が美徳だ……
また肝心な所で……俺は無力だ……




※         ※            ※




シェリルの説教は2時間にも及んだ。
厳しい言葉と責めの言葉……一つの隠し事もない心を抉るような真実の言葉だけがほぼ一方的に浴びせかけられた。
説教が終わり、シェリルが部屋を出ていくと、今度はレーナルドの諭すような説教が1時間……そして、精神的にも肉体的にもズタボロという疲労感が襲う中、アリエスの目の前に一杯の紅茶が差し出された。
「ホント……すみませんでした……」
肩を落として深いため息をつくアリエスにレーナルドは先程とは違った兄のような表情で語りかける。
「俺の言いたいことは全部言った……いつまでもネチネチ怒るほど、女々しくはないさ……」
「…………」
「まぁ……そう気負うな……」
自分の紅茶を飲みつつ、レーナルドはため息混じりにシェリルが出ていった扉を見つめる。
「ああ言うしかないのが、シェリー様の立場だ」
「……レーナルドさん」
そっと見上げると彼は物悲しそうな目線を扉に沿わせていた。
「……お前が連合に捕らえられた時……IMMの誰もがお前の命を諦めたよ……けどな……シェリー様だけが奇跡を信じていた」
「…………」
「口には出さなかったけど……あの方が一番心配していたのはお前の命さ……幻影の城孔雀と同棲なんて……常識で考えれば、いつ殺されていてもおかしくはなかっただろう……腹をすかせた獅子共の檻の中に裸に肉を吊るして入るようなものだ……あの方はな……せっかく奇跡を起こして生きて帰ってきたお前が……自分自身からまた危険の中に飛び込んだのが許せなかったのさ……せっかく助かった命を棒にふるような生き方して、なおかつ自分にそれを内緒にされたのがな……」
「…………」
「知ってるかもしれないが……シェリー様の立場は微妙だ」
「…………」
「元皇帝の側室。相思相愛ながら愛した男の妻にすらなれなかった方だ。政略でな……その後、国家を動かすことになったのはその愛した男と自分でない女の息子。そして、政略結婚によって正室となったいわば恋のライバルだ…………」
「絶対王政ってのは恐ろしい制度だ。頭が優秀なら国家は限りなく繁栄し、無能なら限りなく衰退する。そして、シェリー様がやろうとしてるのは、この国をもう一度、あの繁栄の時代まで押し上げることだ……」
「…………押し上げる?」
「そう……そのためにあの方は今死ぬ気で頑張ってる…………」
「救われないですね……シェリー様……」
「そうかもしれないが……もしそれを否定してしまったら、俺達は……いやこの国家はまた闇だよ……希望を無くし、本当に真っ暗な中へと落ちて行ってしまう……自分を殺して全体のために動けるリーダーのような人間もいるかも知れないが、それを本当に人間と呼んでいいのかと言ってしまうとそれはそれで胡散臭い……それに比べればシェリー様は人間味がある。ちゃんと俺達のことを殴ったり、叱ったりする……」
「…………」
「そして、これはさっきお前が言ったことだ。『たった数人居なくなっただけで国家は衰退する』……それは大きな組織、小さな組織、どちらを取ってもそうだ……IMMもな……」
「あ……」
「オレも仲間を救おうと戦場では散々努力はしたが……結局は仲間は大勢死に、新たな人員をシェリー様に集めさせる手間をかけてしまってる……戦争だから仕方ないといえば聞こえはいいが、ようは俺はツケを全部あの方に払ってもらってるのに過ぎないのさ……俺にできることといえば、一杯の紅茶を淹れてやるのが精一杯だよ……」
「…………」
「だからアリエス……みすみす自分を危険に晒すような真似は頼むからするな……ツケを払うのは、全部シェリー様だ……特にお前みたいな優秀でまっすぐな人間には将来国を背負って貰わなければならない……」
「いや…………俺には……そんな重いものは……」
「別にお前だけに背負えなんて言わないさ……いろんな奴の肩を借りて、それで背負うのさ……いろんな大きさの歯車を集めて、国家ってのは作るものだ……大きな一つの歯車で動かすんじゃなくてな……」
「それを常に考えているのがシェリー様だ……いろんな人の肩を借りた国を作ろうと考えているあの人にはお前も重要な肩の一つなんだよ……そんなお前が自ら死ぬような真似をしたんだ……それで怒らずニコニコ笑ってるような人なら、信用なんてできないさ……」
「……シェリー様の立ち場では……ああ言うしか……」
「そういうことだ……」
「…………レーナルドさん……ホントすみませんでした……」
「そう気負うなと言ったはずだ……過ちを悔いず、唯認めて次に活かすのがオトナの特権だ……まあ、お前の歳でオトナ扱いするのもどうかと思うが……」
飲み終えたカップを片付けながら、レーナルドが笑った。
「とまあ、俺の説教はこれぐらいだ……帰っていいぞ……」
「……レーナルドさん……」
「なんだ?」
「今夜……泊まっていってもいいですか?」
「?」
「シルフィリアの傍に居たいんです……」
その言葉の意味をレーナルドはすぐに理解した。
傍に居たいなどと……違う。彼は、少しちゃんと心を整理する時間が欲しいのだろう……
男としてちゃんと成長するステップに必要な時間が……
「今日の当直、及び宿直はリアーネだ。話は通しておこう」
カップを持ったまま、レーナルドは自分の執務室へと消えていった。
アリエスは彼に深々と頭を下げて、静かに応接室を後にして、先ほどの処置室へと踵を返したのだった。




  ※         ※          ※




その後シルフィリアはしばらくの間、目を醒まさなかった。
シェリル曰く、脳内麻薬の代用品として使用される一歩間違えれば致死量という多量の睡眠薬と合法ドラッグのオンパレードの副作用によるものらしく、一日の起きていられる時間は現状では数時間も無いらしい。そして、その少ない時間すら、食事や検査や尋問などで削られてしまう。
話すことは疎(おろ)か、起きている彼女に会うことすらできないという状態が続いた。
でも……それでもなんとなく幸せだった……
彼女が敵でなく、戦争と隔離された状態で生きているという事実だけで……
だが……
それも長くは続かなかった……
麻薬の禁断症状というものがどれほど恐ろしいものなのかは段々と痩せていく彼女を見ていれば嫌でも理解することになった。
さらに、いざ禁断症状が出てしまった時の彼女を見てしまうと……両耳を抑えて痛みと苦しさに叫びまわる彼女を見てしまったら……
できることなら今すぐにでも本物の麻薬を取りに行きたかった。
だが、それとは無関係なところで、同じぐらいにどうしようもない出来事が起きていた。







エーフェ皇国宮殿ラヴィアンローズ城の中央、玉座の間にて……
「キャスリーン女王陛下……発言することをお許し下さい……」
荘厳かつ豪奢な玉座から見下ろす場所に一人の男が跪いている。
「えーっと……あなた誰だったかしら?」
玉座で足を組み、頬杖をつきながら彼女は怪訝かつめんどくさそうに男の顔を見下げた。
「ウォーカー元老院議長ですよお母様」
隣で玉座より一回り小さな椅子に座る本物の皇帝がそう答えた。
「へー……まぁ、どうでもいいわ……何?」
「はい、申し上げます。最近のシェリル王妃……」
「よく聞こえなかった。というか私以外に王妃なんて居たかしら?敬称の付け間違いは厳罰なんだけど……」
「し!失礼しました!!シェリルの行動についてです」
「アイツがどうかしたの?」
「妙だと思いませんか?ほんの数週間前までは定例会議に無理にでも顔を出していました……それが本日の会議には彼女は姿を見せませんでした……」
「いいじゃない静かで……新しい連合の殲滅作戦についても順調に決定したじゃない……」
「それだけではありません。ほんの数週間前までは宮殿でコソコソと戦術プランを盗み見て、自らの部隊を派遣するための手はずを整えていました。例えば作戦書と計画書の軍部への提出などを……いかに独立部隊といえど、書類を提出しなければ軍法違反になりますし……しかし、最近はそれすらおろそかになっているようで……ずっと離宮に篭りがちであり……」
「何が言いたいの?はっきりしなさい殺すわよ」
氷のように冷たい目の一喝でウォーカーが震え上がった。
「も!申し訳ありません……その……あの……」
「…………誰かこの者の処刑の準備を……」
「白孔雀です!!」
怯えきった元老院議長が大声で叫んだ。
「幻影の白孔雀です……陛下……」
「?」
「近日、奴を戦場で見たという報告がございません。近日の戦闘がエーフェ圧勝なのはそのためでございます……」
「……」
「最後に白孔雀を見たのはあの捕虜引換取引で本国に帰還させたドノバン伯爵の息子……見たのは研究所……そこには不確定ながら彼女の部下であるアリエス・フィンハオランが居たという情報もございます」
「……」
「彼女の足が宮殿から遠のき、離宮に篭りがちになったのはその僅か10日後程度からです」
「……」
「……」
「……」
「…………あの……陛下?」
黙り続けるキャスリーンを心配してウォーカーが声をかける。しかし、彼女の目を見て息を飲んだ。その目には……有り余る程の怒りが満ちていたから……
鬼のような形相でキャスリーンは地面を蹴るようにして立ち上がった。
「兵を集めろ!!レウルーラ離宮へ向かう!!それと……」
血走った瞳がウォーカーへと向けられた。
「そんな重要な情報をこれまで秘匿していたこの男を処刑しろ……」
その言葉にウォーカーが一気に青ざめる。
「じょ!!女王陛下!!私は今までずっと国家のためだけに!!」
「黙れ。こんな重要な情報を秘匿していたのは国家に対する反逆とみなす」
そう言うなりキャスリーンは近くに居た側近の一人を呼びつけた。
「新しい拷問の実験台が欲しいって軍部からの打診があった。丁度いいからこの男を使え。その後の処刑は断頭台ではなく火刑で行え。遺体の返却は行わずとも良い。むしろ塵一つ残すな!」
「陛下!!今一度お考え直しを!!私にはまだ妻も娘も居るのです!!何卒!!なにとぞ!!」
そう言いながら引きずられていくウォーカー。その様子を尻目にキャスリーンは別の側近に命令を出す。
「あの男の娘と妻を軍部へ。裸にして放り込みなさい。丁度慰安婦が欲しいって言われてたところなの……兵士は集まったか!?」
その言葉に「城内の衛兵は全て集まってございます!!」という返答が帰ってくる。
「目的はあの女が隠している“幻影の白孔雀”の確保!!邪魔するものは誰であれ切り捨てろ!!ただしあの女だけは生かして連れてこい!!八つ裂きにしないと気が済まない!!」
ズカズカと怒りに満ちた表情のまま彼女は歩みを勧める。その後ろを追従する兵士は400余名。
「孔雀狩りだ!」
キャスリーンの号令と共に、待機していた兵士が一気にレウルーラ離宮の方角へと走りだした。





  ※         ※          ※





「シェリー様」
シルフィリアについての情報をまとめている処へ音もなくスッと現れた男がやや慌てた面持ちで傅(かしず)く。
「……ジョーカー……あなたが此処に来たってことは……バレた?」
「はい」
「思ったよりも早かったわね」
「キャスリーンは自ら兵士を率いてレウルーラを探索される予定のようです。あと数分もしない内にここへ到着するかと……」
「……レーナルド……」
「はい?」
「確かここレウルーラ離宮は私個人の所有物でキャスリーンといえど勝手に手出しできないってことになってるわよね?」
「……その通りですが、そんな言い分を聞く相手だと思いますか?」
「だよね〜」
羽根ペンを置き、シェリルが立ち上がる。
「レーナルド。悪いけど私の軍服と武装の用意を。後は手はず通りね」
「またアリエスが大騒ぎしそうですね……」
「”坊や”には後でちゃんと言っておかないとね」
そう言っている間に深紅の軍服を見に纏い、シェリルは部屋を出た。エントランスに向かう途中からすでに隊列を組んだ軍隊の足音が徐々に近づいてくるのがわかった。途中でレイピアとランスを手にとって居間にたどり着いたその時を同じくして、鍵の掛けられていたはずの正面玄関が勢い良く開かれた。
一度大きく深呼吸して、シェリルは静かに吹き抜けエントランスの二階から目下の玄関を見下げる。
ズカズカと土足で踏み込んでくる兵士たち。勝手にエントランスに隊列を組んで中央に通路を作る。そこを仰々しくキャスリーンが歩みを進める。
「キャスリーン。何のつもり?ここは私の私的離宮。あなたといえど、勝手に入ることは許されないはずよ。わざわざ衝車を使ってまでこの扉をこじ開けた意味。ちゃんと説明してもらおうかしら?」
「黙れこの反逆者!!よくもこの私を謀り、挙句の果てに上から見下げるなど……!!死して尚許されないとわかってんのか!?」
余裕のない怒りに任せた言葉遣い。それにシェリルは静かに目線を釣り上げた。
「反逆?何?また勝手な思い込みで私の離宮を壊したというの?愚弄するのも大概にしなさい。此処は私の私的宮殿。先代皇帝から賜り、先代皇帝によって私のプライベートが約束された宮殿よ。反逆というのなら、今のところ、そちらが先代皇帝への反逆ということで捕らえられてもおかしくないレベルじゃない?」
「口を閉じろこのクソ女!!幻影の白孔雀がこの離宮に居ることはとっくにわかってるんだよ!!」
「幻影の白孔雀?幽霊ならまだしもそんな都市伝説みたいなものがこの屋敷に居るわけないじゃない。それとも、居るという確たる証拠でもあるの?」
「今から証明してやる!!この離宮を徹底的に探してな!!」
キャスリーンが扇を振り下ろすと同時に隊列の先頭の兵士が一気にシェリルに向かって襲い掛かるべく階段を駆け上がった。
しかし……

『緋炎の射手(サギタ・フレイム)』

シェリルによって唱えられ、同時に襲いかかってきた数十本の焔の矢の前に為す術もなく大やけどのおまけ付きで階段から転げ落ちる。
「これ以上、この屋敷で勝手をするというのであれば、私も黙ってないわよ。キャスリーン」
キッと睨みつけるような表情をしたシェリルにキャスリーンの怒りは頂点に達する。
「かまわない!!蹂躙しろ!!あのクソ女を踏み潰せ!!そして屋敷の中から白孔雀を見つけろ!!」
その号令と共に控えていたすべての兵士が突撃した。中には兵士の中でもエリート中のエリートとされる王宮近衛兵団も混じっている。
だが、それを見てなお、シェリルは笑みを浮かべた。


「久々に……本気でやらないとかなぁ……」



  
  ※         ※          ※




時を同じくしてレウルーラ裏の隠し扉が開く。その中をまず先頭でレーナルドが頭を出す。当たりを見回し、誰も居ないことを確認してから這い出て服の埃を払った。
「大丈夫。今のうちだ……」
その言葉に今度は通路の中からリアーネが姿を表した。ただ彼女一人ではない。その背にはシルフィリアが背負われていた。
「悪いな……夜勤明けで寝てた処を突然埃っぽい地下通路なんて歩かせて……」
その言葉にリアーネは尋常じゃないぐらいに抗議の目線を向ける。
「…………言いたいことと事情を説明して欲しいことが山のようにあるんですけど……」
彼女の言い分はこれ以上ないぐらいに最もだった。いつもの夜勤当番を終え、凄まじく重い瞼をなんとか保ちながらレウルーラの仮眠室のベッドに入り眠ろうとした処にレーナルドが「リアーネ。事情は後で説明するからとにかく手伝ってくれ!」といつになく慌てた様子で言われた。尋常ではない剣幕に驚きつつも、なんだろうと彼の後をついていくと……
「彼女を背負ってくれないか……ここから運び出したい……」と言われ、彼女?と思ってベッドの上を見た瞬間に身体が震えた。そこに居たのは自分を2度も殺そうとした相手だったから。アレほど美しくて可愛くて怖い生物……一度見たら忘れるわけがない……そこに居たのは紛れもなく幻影の白孔雀だった。
どうして敵兵の彼女が此処にいて、何故苦しんでいて、今運び出さなければならないのか……
その全てを聞かされぬまま、レーナルドに怒鳴られて今まで見たこともない存在すら知らなかった埃っぽい通路を幻影の白孔雀を背負ったまま移動させられ、今に至る。
もはやどこから聞いていいのかわからない。
「本当にゴメン。でも今は事情を説明していられるような状況じゃないんだ……後で全部話すから……とりあえず今は彼女を安全な場所へ移すことを考えてくれ……」
「安全な場所ってのは白孔雀が安全な場所って意味ですか?それとも私達が白孔雀と対面した状況で安全な場所ってことですか?」
「両方だよ……ともかく、彼女のことは任せる」
「嫌ですよ!!怖くて今も足の震えが止まらないんです!!レーナルドさんが背負ってください!!」
「できるならそうしてるさ……」
「どういうことです?」

「いや……恥ずかしい話なんだが……多分触ったら虜になる……」
その言葉を十分咀嚼してやっと意味を理解する。改めて背中に居る彼女を質感を感じてみると確かに……驚くほどにきめ細やかですべすべサラサラとした肌……モッチモチでフニフニの肉感……鼻をくすぐるとてつもなくいい匂い……緊急時で、彼女に絶大な恐怖感を持っていて、かつ同性である自分ですら精神的に揺さぶらる魅力……こんなものを冷静な状態の男が触れでもしたら間違いなく……

ただ……

「最低です」
「お恥ずかしい限りで……」
まったく、どうして男ってのはどいつもこいつもこう節操が無いのだろうか。
「さて……とりあえずは裏口から宮殿を出る。その後は……とりあえず、聖堂に行こう。エリー様なら何も言わずに力を貸してくれるはずだから」
「……わかりました」
リアーネが短く答えたその時だった。
―居たぞ!こっちだ!!―
大声を上げて叫ぶ兵士。2人は同時にそちらへ向き直る。そこには、数人の兵士が弓を構え、鉄甲兵が剣を構えていた。
「大人しく縛につけ!」
小隊長らしき男がそう言う。即座にレーナルドが反撃をしようとしたところ……
「雷霆の……………………咆哮(ライト……ニング………………カリドゥス……)」
小さく小さく唱えられたその呪文と同時にレーナルドの目の前に現れた二重の魔方陣。そしてそこから放たれるまるで戦艦の大砲のような雷を纏った光の咆哮。
信じられないスピードでその光は目の前に居た兵士たちをボーリングのピンの如く打ち倒し、地を這わせる。
レーナルドがそっと背中を見ると、まるで虫のような息の少女が肩で息をしていた。
それに一番驚いたのはリアーネだったかもしれない。まさかあの幻影の白孔雀が……自分たちを助けるなんて……
「…………信じられない……」
思わず口から漏れる言葉。対し、レーナルドは静かに当たりを見回した。どうやらもう女王の兵隊は居ないらしい。
「………………何にしても助かったのは事実だ。聖堂へ急ごう」



  ※         ※          ※



流石に敵が多かった。それに、流石皇国近衛兵団。皇帝を守るだけあってその中には魔術師や対魔力鎧を着込んだ装甲兵や重装甲兵。剣も最高級のセラミック製。それを単独で相手にするのは流石に骨が折れた。
真っ白の大理石で出来た離宮のエントランスは今となっては血の海の真ん中で、肩で息をしながら突撃槍を杖がわりにしてシェリルは当たりをもう一度見回す。
まだ相当数の兵士が槍や剣を構えていた。しかし、向こうもこちらの修羅のような力を目の当たりにしてすぐに襲い掛かってくることはないけれど……
しかし、残りの数を考慮するにしろ、チミチミした戦い方では魔力は足りても体力が保たないにしろ……これまでのようなできるだけ殺さないような戦い方をしていたらこちらが殺られかねない。
仕方ない……宮殿を壊すのが嫌で抑えてきたが……本気の本気、全力全開で戦うしか……

と、その時……

エントランスを埋め尽くす程の兵士の後ろの方で悲鳴が上がった。少しそちらに目をやると、そこはどうやら玄関の方。そこから血液が噴水のように飛び散っている。時折煌めく銀色の閃光。まさか……
「シェリー様!」
「アリエス!」
突然の来訪者に兵士がざわめき、一筋の道を作る。その瞬間に、アリエスは一気にシェリルの元へと駆け寄った。
「遅かったわね……坊や……」
「どうなってるんですか!?いつも通りに登城してみれば、どうなってるんですかこの状況は!!」
「ちょっと……色々あってね……」
「まさか、シルフィーのこと……」
「大丈夫。ちゃんと逃した」
「…………ありがとうございます」
「それよか、今はこの状況を何とかする方法考えないとね……」
「あぁ……大丈夫です。そちらの方は俺が手を打っておきました」
「手って……」
この状況をどうにか出来る人間など居るのだろうか……そもそも、シェリルが立てた作戦プランは、白孔雀が逃げるまでの時間稼ぎを行い、彼女が逃げた後で兵士達数人をわざと建物内に侵入させ、彼女が居ないことを確認させる手はずだった。たとえ手術台や薬が見つかったとしても最前線で戦うことの多いIMM。そこはなんとでも言い訳できるし、あえて言い訳をする必要もない。
だが、状況はそんな簡単に進んでくれなかった。予想以上にキャスリーンが凶悪かつ強力な兵士を用意したせいで、こちらも手心を加えることができなかった。結果が生臭さすらある血の海。事態は一刻を争う程に切迫していた。なにせ相手にしているのは自国の精鋭兵。もちろん魔導師であるシェリルが負けるはずもないが、戦争中に国内の優秀な兵士を失う訳にはいかない。
正直かなり手詰まりで、今後の展開をどうしようか闘いながら必死に策を巡らせて居たのだが……果たしてそれを解決するアリエスの策とは……
改めて考えを巡らせる前に、再び悲鳴が響いた。今度は宮殿の外からだった。
やがて、悲鳴は段々と近づき、玄関まで来ると、アリエスの時よりも大きく花道が開かれた。


「このバカ騒ぎは何事か!!双方剣を納めろ!!」


低く迫力のある声が響いた。
そこには一人の男が立っていた。年齢は30前後に見える。古代中国の王族のようなダラダラとした漆黒と黄金の漢服に純白のローブを羽織り、背中には狼の紋章。
「会うのは私も初めてね……」
ニヤリとシェリルが笑った。なるほど……これがアリエスの用意した秘策。確かにこれなら……
対しそれが誰かを知らぬ一般兵たちは、一糸乱れぬ隊列で半数の兵士が反転し侵入者に各々の兵器を突きつけた。
「やめなさい……あなた達が束になってもそのお方には敵わない」
一応の注言を申し付けたシェリルだが、そんなことを気にする様子もなく、兵士たち数人が先陣を切って男に突っ込んだ。だが、その刹那……一瞬で男たちが切り伏せられる。最高級のミスリルを惜しげも無く使ったキャスリーンご自慢の親衛隊にもかかわらず。
しかし……やはりというかなんというか……攻撃してきた相手を一切の情を交えずに切り伏せるその実力と力は流石に彼というべきか……


「もう一度いう……馬鹿騒ぎをやめろ。さもなくば、この竜の牙より造りし黒刀の元、一撃で消し去ってくれる」
そう言い、おそろしく緩やかな動きで剣を構えるその姿に、兵士たちがたじろぐ。ただ、剣を構えただけで空気がガラスのように音を立てて砕けてしまいそうな威圧感。流石、フィンハオラン家現当主。シルバーニ・ド・フィンハオラン。
「フィンハオラン。お前も貴族の端くれだというのであれば、この逆賊を撃て!」
扇を突きつけて命令するキャスリーンに一つ小さな溜息をついて、シルバーニは彼女を睨みつけた。
「付け上がるなよ、小娘が。……いかに先帝の正室であったとはいえ、現在の皇帝は先帝の息子、アルディオだ。四大貴族に命令を下せるのは皇帝のみ。さらに四大貴族当主は其の真実と忠誠の名のもとに、皇帝の命令を選定する権利すら有する。薄汚い前王妃ごときがこの私に命令するなど片腹痛いわ!」
「このっ!?お前こそ付け上がるな!私の言葉は皇帝の言葉!!我が命に従えぬというのであれば、今すぐ貴族の地位を取り上げ、一族全員に死よりも辛い罰を与えるものと覚悟しろ!」
青筋を立てて怒り狂うキャスリーン。だがしかし、それでもシルバーニは口元に小さな笑すら浮かべる。
「エーフェの皇帝は一代に付き一人だけ。それ以外はたとえ宰相や血縁者であろうが、皇帝を名乗ることは許されない。お前ごとき薄汚い女でもよく知っているだろう……舐めるなよ……王妃如きが皇帝を名乗るのがどういうことか今一度その身に焼きつけよ。それに、私に楯突いて、ここから無事に脱出できると思うなよ……そして……お前は一族全員に罰を与えると言ったが……皇国の守人、剣の一族フィンハオランをあまり舐めないでもらおうか……貴様の差し向けた刺客や師団如きに簡単に捕まるような人間は……我が一族には居ないものと肝に銘じておけ」
それは本当に圧倒的な迫力だった。誰にも逆らうことを許させぬ気迫と覇気。それだけでここにいる全員が束になって掛かっても彼たった一人の足元にも及ばぬことを知らしめてしまった。
流石に分が悪いと思ったのか、キャスリーンも苦虫を噛み潰したような顔のまま、静止していた。そこへ、数人の兵士が舞い戻ってくる。
「女王陛下!屋敷内をくまなく調べましたが、どこにも白孔雀が居たような形跡はありません!!」
その報告を受け、静かにその兵士を見据えるキャスリーン。



「………………あの兵士を殺せ……」



暫くしてから彼女が発した命令に敵兵が呆気にとられた顔をする。

「あの……女王陛下……一体どういう事で……」

「今報告してきたあの兵士を殺せと言った。聞こえなかったのか……でなければ貴様でもいい。死ね」
気取らぬ低い低音で発せられたその声と眼光に敵兵全員が凍りつき、報告をした兵士を全員で見据える。
そして……怯える兵士に向かって数十本の矢が放たれたのはその僅か数秒後のことだった。
血の涙を流しながら痙攣し、命の尽きる最後の言葉として妻の名前や子の名前を叫ぶ兵士を横目にシェリルはキャスリーンを睨みつけた。

「…………今回の立ち入り調査はその兵士が言い出し、私はそれを信じ出兵をした。だが、それは私を陥れようとする兵士の策略だった。そしてその兵士は国家反逆罪で処刑した……」
もう身分も国家もどうでもよくなった。それを聞いた瞬間シェリルは全てを捨ててでもあの女をこの場で殺してやろうかと思った。今まであの女には最後にはきちんと法の元で裁き法のもとに滅してやろうかと思っていた。だが、そんなものはどうでもいい、身分も今まで培ってきた実績や人気も次期女王の夢もエーフェの平和への夢も全部捨てて……反逆罪になろうとも国民の信頼を裏切ることになろうとも悪に手を染めようともこの女を殺すことで国家の主導者が居なくなり結果敵国に一斉に攻められようともそんなことは全部殴り捨てて……今すぐあの女の首を跳ねてやりたかった。
この女は……幻影の白孔雀は必ずシェリルが匿っていることを知っており、それがもう逃げ出していることも知っており、尚且つこの場を収める手段として……自分の命令を忠実に聞いていた罪もない兵士を一人犠牲にしたのだ……国家反逆の濡れ衣を着せて……すべての罪をなすりつけて……有無を言わさず殺したのだ……

「キャスリーン……てめぇ……」

怒りを露わに鬼神のような目で睨みつけるシェリル。対しキャスリーンは小さく舌打ちした後……
「……国家の反逆者は私が断罪した。この場は撤退する」
そう兵士に告げた。そしてシェリルの方へと眼光を飛ばし……
「納得行ってないような顔をしているけど……これが事実。確かめたければその兵士に聞くことね……死んでるけど」
そう言い残し、踵を返して離宮を後にした。
その瞬間、シェリルの後ろで勢いよく抜刀した音が聞こえた。
振り返るとそこには青筋を立ててまるで猛獣のような目をしたアリエスが静かに剣を構えていた。そして、何のためらいもなくキャスリーンに向かって走りだす。
慌てて振替えり、彼を止めようとしたが、すでに時すでに遅し……


シルバーニが殴り飛ばしてアリエスが後ろの壁に激突した後。



キャスリーンはわずかに振り返るも事も無きようにそのまま離宮へ踵を向けた後だった。
ホッと一息ついて振り返ると、倒れたアリエスの頭をシルバーニが踏みつけているその途中。

「…………ッテメェは何を考えてるんだ……魔導師であるシェリルですらある程度苦戦する程の軍団に対して一人で突っ込んであの女王の首を取ろうってのか?」
「離せこのクソジジィ!」
「クソはお前だこのバカ弟子……何をしたいんだお前は……あの女王を殺そうとして周りの近衛兵に惨殺され結果、主であるシェリルに迷惑をかけるのがお前の望みか?」
「…………」
黙るアリエスに今度はシルバーニが抜刀。

「だとしたら、今すぐこの場でその首を刎ねてやる。過失ではなく意図的に主の首を締めるような者は我がフィンハオラン家には必要ない」
いつの間にやら兵士が全員が立ち去り、3人だけになったエントランスは先程までの状況が嘘のようで、砂埃が動く音すら聞こえるほどに静まり返っていた。

「…………頭は冷えたか?」

シルバーニの言葉にアリエスは抑えられた頭を擦り付けるようにして意思表示。静かに頭から足を離されそのままアリエスは静かにシェリルへと向き直り……

「すみませんでした……」

土下座……正直流石のシェリルといえど、目の前で始まった蹂躙とも言うべき家族喧嘩とその後の土下座には流石に引いた。
頭をガサガサと書いた後に一つため息をついて、「頭をあげなさい」と一言。

「…………あなたがやらなきゃ私がやってたかもしれない……」

実のことを言えば割と限界だった。全部を捨ててシルバーニもアリエスも犠牲にしてこの離宮ごとあの女王を消し去ってやろうかとも思った。本当に想い留まれたのはアリエスが先に斬りかかろうとしてくれたかもしれない。それに想い留まることができて本当に良かった……だって……もしここであの女を殺そうとしたら、今まで必死になって築いてきたものが全部崩壊する。もし殺し損ねれば反逆罪で自分は死刑、いよいよ抑止力が無くなったあの女による国家を滅ぼすような自分勝手が始まる。そして仮に成功していても皇国はあの女が集めた優秀な兵士を全て失い結果戦争に負ける。植民地支配が始まる。
これではあまりにも……今までに死んでいった兵士が報われない。戦争の引き金になったブルールマリアの犠牲者フェルトマリア公夫妻も。だから……いつかはあの女に自分の罪を償わせなければならない……だがそれは今ではない。
あの女がやってきたこと、隠しているものそのすべてを白日のもとにさらしてから……でないと意味が無い。何も変わらない。
残留していた怒りを押し殺すためにもう一度深呼吸してから、シェリルはシルバーニへと向き直った。
「フィンハオラン卿も此度は御足労並びに救援いただきまして本当にありがとうございました。私一人ではどうなっていたか……」
「いや……むしろこちらこそ今まで馬鹿弟子を預かっていただいておきながら挨拶もせず申し訳ない。先代皇帝には随分世話になった。これからも馬鹿を頼む。俺に出来ることがあればまた言ってくれ。とはいえ、こんな放蕩貴族では訳にも立たぬやもしれぬが……」
「いえ、心強いです」
キャスリーンに排除され直接国政に関われないとはいえ、四大貴族の権力は未だ強い。その中でもフィンハオラン家はエーフェ皇国で最も歴史があり、最も栄誉ある貴族の家柄。暗黙の了解とはいえ一族全員が身分に胡座をかけない一代限りの貴族“騎士候”に任ぜられ、代々皇帝の側近や近衛兵や専属騎士を担ってきた一族。味方になってくれるなれば、これ以上心強いことはない。
しかし、先程までの雰囲気とは一転、神妙な面持ちになったシルバーニはシェリルの目を見据える。
「しかしシェリル…………わかっているとは思うが……このまま幻影の白孔雀を隠し続けるのは不可能だ……」
「……やはりバレてましたか……」
一瞬嘘を吐こうとも思ったが、おそらく下手な嘘が通用する相手ではない。それにアリエスの祖父であれば信用できる。
「詳しい事情は後でアリエスから聞いていただくとして……正直、監視の面でも白孔雀の肉体の面でも問題があります……間違いなくこのまま隠すのは無理でしょう……」
「それで……どうするつもりなんだ?」
「今はまだなんとも……ただ、長くは悩めないということも自覚しております。今はとにかく戦場から白孔雀が居なくなったという成果を喜ぶべきでしょう……」
「…………辛ければ……私が文字通り処分しても構わんが……」
シルバーニの発言にアリエスが苦悶の表情を浮かべる。まあ、流石に恋の相手が家族に抹殺されそうになっているとなればその心中が穏やかならぬは仕方なき事だが。
「いえ……この件につきましては私個人が決着を付けなければならぬ問題だと自負してますから。国家、白孔雀、御子息、国民……その他全てを考慮し、最適かつ最良な手段を取りたいと思います」
「…………ならば俺が言うべきことはもう無いな……一つ言うなれば、もし考慮の上で切り捨てる必要があるなら我が馬鹿弟子のことを切り捨てて最善を尽くせ。フィンハオランたるもの、その程度の心構えはできている」
踵を返し、マントを翻しながらシルバーニは立ち去った。
だが、本当に彼の言うとおりだ……早く今後のことを考えなければ……
最善の選択と共に……全てにとっても……アリエスにとっても……
しかし、いくら考えてもいい結果が出るはずもなく、気が付けば白孔雀を教会のエリーの元へと預けてから一週間が経過してしまった。




※          ※           ※




事態が動いたのはその一週間後の宵だった。
夕食が終わり、一日の業務が終わろうとしたその時、普段なら慌てず騒がず爽やかにがモットーのようなジョーカーが慌てて室内に入ってきたかと思うと、とてつもない事態を報告した。
エーフェ皇国港の大規模火災。燃えているものが何かは分からないが、延焼が非常に激しく港近隣の学校などにも被害が出ているとのこと。そして、正規軍からIMMにまで港での救助活動要請が来る程にまで事態が深刻なこと。
すぐさまシェリルはIMM全員に非常事態宣言を出し、港に招集。
だがしかし……
そこにアリエスの姿は無かった。


大規模炎上により、救助活動要請は正規軍やIMMだけに留まらず義勇軍や果ては教会にまで及び、最低限の兵士を残して港の事態収拾にほぼ全員が向かう。住民には避難勧告が出され、すでに避難は完了。皇都はまるでゴーストタウンと化していた。
そんな人どころか動物の姿も見えないような皇都の中央教会。東の空がまるで夜を昼のように照らすその中である一人の人影が地下室への階段を降っていた。
誰も居ないことを確認しつつ慎重に進み、途中で出会う聖職者を一撃で失神させながらある部屋を探す。
殆どすべての地下隠し部屋を探し終えたところでやっと彼は目当てのモノを見つけることに成功した。
地下室の一番奥の奥。地下牢の隠し部屋の中に彼女は居た。牢獄の中で何本ものチューブに繋がれたシルフィリアは幾分かやせ細って見えた。そっと檻の前に立つとそれがより際立つ。ただでさえ細かった腕が更に細く……血色の悪さも相まってまるで鳥ガラのよう。枕元に置かれているのは法律ギリギリの麻薬やとてつもない量の睡眠薬。
と……
気配に気がついたのか血走り曇った目を薄く開き、こちらに瞳だけを流す。そして、訪問者が誰なのか気がつくと苦しさにもがき続け、いっそ清々しい程の瞳が彼を静かに見つめた。
「……………………」
話す気力すら無い程に衰弱した状態。そんな彼女を見つめてアリエスは静かに抜刀した。
大きく大上段に構え、一気に振り下ろす。それで牢屋の鍵を叩き切ると、すぐに中に入り、枕元の薬類を袋の中に詰め込んで、そして彼女を持ち上げた。
驚くほどに軽かった。まるで中身が入っていないのではないかと思うほどに。
「…………何を……しているんですか?」
聞き取れないほど小さな小さな声で彼女は苦しそうに呟いた。
それを無視して、アリエスは来た道をそのまま戻る。もう一度彼女は尋ねた。先程よりもほんの少しだけ大きな声で……「何をしているのですか?」と……
「君を逃がす……」
彼女をお姫様抱っこしたまま階段を駆け上がりながらアリエスは短く答えた。
「……逃がすって……」
「このままこの国に君がいたら………君の意志に関係なく君の行く末を大人たちの勝手な事情で決められてしまう……そんなのは……悲しすぎる……だから……」
「…………」
「こんなに苦しんでる君を……もう見たくないんだ……殺されたり道具にされる君を……
もう見たくないんだ……」
「………………」
「明日の朝一で帝国との戦域最前線に向かう馬車がある。御者に金を握らせた。悪いことだってわかってるけど……でも……君は帝国に戻れ。きっと残ってるはずだ……研究所の跡から薬を手に入れて二度と戦争とかかわらずに生きて欲しい。薬さえあれば君は生きていけるんだ……普通の女の子として……普通に一般人として……」
「………………」
階段を駆け上がり外に出ると宵闇だというのにまるで昼間のように空を焼いていた。その中をアリエスは走りぬけながら、彼女に先ほど詰めた袋を渡す。
「帝国に戻るまではなんとかこの薬で我慢してくれ。それ以外に君を楽にできる方法はないから……大丈夫、きっと助かる!きっと……」
「………………やめなさい……」
死の淵から聞こえるような声の抗議と共にギュッとアリエスの軍服の胸元が掴まれた。
「…………そんなことしたら……あなたが……」
「確かに、シェリー様になんて言われるか…………懲戒免職か……解雇か……あるいは軍法会議で死刑になるか……でも、そのドレも君をこのまま実験動物のように研究されて薬で延命されて最終的に政治の道具にされたり殺されたりするより良い!一生負い目を感じて生きるよりも、君を助けて死んだほうが良い!」
「………………」
「君をこんな状態にしたのは俺が責任……いや、君がこの国に来るきっかけをつくったのも……君が処分されるきっかけのエリー様の事件や森の事件も俺がそもそもの原因。だから、償いたいんだ!せめて!せめて!!」
商店街を抜けて裏路地に回るとそこには一台の幌馬車が停車していた。シルフィリアには先ほどまで自分が潜入用に着ていたマントを着せて、御者に約束の金額を渡し、「この子を頼む」と告げる。そして、シルフィリアをそっと荷台の武器や食料の隙間に緩衝材として敷かれた藁の上へと置いた。
「うまく逃げてね」
そう言い残し、御者には「頼みます」と一言。「毎度あり」という言葉と共に、馬車はゆっくりと走りだした。その様子を見えなくなるまで見送り、アリエスは急ぎ港へ……すでに火の手は皇都の一角にすら迫る勢いだった。
息を飲んでアリエスは東へ向かう。一人でも多くの人を助けるために。




  ※         ※          ※




火の勢いは近づくにつれ、その激しさを肌で感じることができた。
真夏の日差しよりも肌を刺激し、呼吸すらままならぬ……思い切り息を吸い込んでしまえば肺が焼けてしまいそうな程の……一瞬で目の潤みすら干上がってしまいそうな程の膨大な熱に包まれ、止めどなく出てくる汗を袖で拭いながらアリエスはひた走る。
途中逃げ遅れた人を誘導し、要救助の子供を小脇に2人、背中に一人抱えながら必死になって走った。子供を救急隊に譲渡する頃には、すでに上着のコートは焼け焦げ、体中の処々に火傷を負っていた。しかし立ち止まっては居られない。そのまま走りぬけなんとか作戦本部へ。
到着するなりシェリルから「遅い!」という叱咤の声と今まで何をしていたのかの尋問が加えられたが、長々と叱っている時間がないことはシェリルも重々承知の上で現状の説明が早々に成された。
「…………状況は見ての通り最悪。燃えているのはどうやら宮廷に運び込まれる荷物だったようだけど……それにしてもこの燃え方と匂い……おそらく輸入禁止の化学薬品と火薬が混ざっている。本来ならあの女(キャスリーン)を問い詰めて何が燃えているのかはっきりさせたいところだけど、残念ながらそんな時間はないわ……魔術師を筆頭に兵士が消火活動をしているけど、火が回るほうが早い。だから何人かは付近の建物を壊してコレ以上延焼が広がらないようにしてる。唯一の救いは火の勢いのせいで戦争中にも関わらず敵がせめて来ないことね。まさか炎に飲まれに来る馬鹿も居ないでしょう……」
「皆は?」
「レーナルドとジョーカーがそれぞれ、燃え広がりの少ない北西と南西の口からIMMの隊員1/3ずつを連れて突入。残りは私が直接指揮して今南側から突入させた。内部構造を説明するわよ」
シェリルは近くのコンテナの上に乱暴に置かれた地図の元へとアリエスを誘う。炎の中から持ちだしてきた地図は焼け焦げ、煤が付き、炎の凄まじさを物語っていた……
「アトランディア港の倉庫は大きく分けて13。大きな中央倉庫の周りに蜂の巣みたいに12つの倉庫が並んでいる状況よ」
「じゃあ、俺もこの倉庫のどれかに突入して救出活動をすればいいんですね?」
「えぇ……倉庫の番号は12時の方角を北としてそれぞれ時計の配置と同じ。日の周りが激しいのは3番倉庫だからここは切り捨てるしか無い。でも隣の2番倉庫と4番倉庫はまだ人が取り残されている」
「じゃあ、俺もこのどっちかに……」
「指示は隊員証のカードを使って追って出すけど……そうね、他の地区は殆ど救助活動のための人員を配しているから2番倉庫か4番倉庫に向かってもらうことになる。ただ火のまわり方を考えた慎重な行動をして頂戴。一番延焼が大きい地区だから」
「了解しました」
「あくまで様子見でいいから先に突入してちょうだい。防火服は馬車に入ってるから自分のサイズを出して使って。あと、一応水は持って行きなさい。瓶一つでも自分にかけるなり加熱されて開けられなくなったドアノブを冷却するなり使い道はそれなりにあるはずだから」
「はい!行ってきます!」
言うなりすぐにアリエスは準備をはじめる。まず全身に水をかけて体にコレ以上の火傷や肉体が延焼するのを防ぎ、防火ローブに身を包んでポケットに水を入れた大きめの空き瓶を3つほど突っ込んだ。
そして、準備が終わるやいなやすぐに走りだす。正直とてつもなく熱いし怖い。だが、それよりも今自分の助けを必要としてくれている人が居る。14歳のヒーロー気取りの“坊や”には炎の中に飛び込む理由はそれだけで十分だった。



  ※         ※          ※



ゴトゴトと荷馬車が揺れる。その振動だけでも全身の内側を蛭が這い回っているかのような不快感と頭が割れそうな程の頭痛に苛まれるが、シルフィリアは我慢して藁の上でじっと体を横たえていた。幌の隙間から外を見ればまだ空が赤い。真夜中だというのに夕焼けのようだった。
そんな中、浮かぶのはこれからの生き方の事……おそらく研究所の跡に行けばいかに爆破されたとはいえ、薬の保管施設は地下。おそらく一つや二つは残骸なら残っているだろう。そしてそれを醸造することもまた自分が身につけさせられた知識を使えばそれほど難しいことではないと思う。問題はその後。
どうやって生きていくべきなのか……だ……
そもそも人間兵器……戦略兵器である自分なんかがこのまま生きていても出来ることは屍を増やすことのみ……実に非生産的ではないか……
なれば、本当に娼館にでも身を売ってしまおうか……試行錯誤を繰り返したどり着いた100人が100人ため息を漏らすほどに美しく作り上げられた自分の容姿と最高の感触の肌……
これを使って本当に心身ともにボロボロになってみようか……そのほうが隠れて住むよりもいくらか他人を幸せにできるし、それに生産的かもしれない。こんな体でも一応は女。仕様上限りなく出来にくいとはいえ、一応子供が産めないわけではないはず……
そんな中、フッと蘇るのはある言葉……アリエスが言ったあの言葉……
―君はどうしたい?―
私はどうしたいんだろう……何をしたいんだろう……
考えたこともなかったし、今までは考える必要すら無かった。ずっと戦い続け殺し続け騙しつづける毎日が続き、いつかは戦場で散るものだと思っていた。自分は兵器。それ以上でもそれ以下でもない。
自分は一体……何がしたいんだろう……
考えれば考える程、只でさえ頭が割れそうな程の頭痛が、今度はまるで直接脳を錐で穿たれているかのような激しい痛みを感じた。慌てて渡された薬をガバガバと口の中に入れ飲み込む。まるで意識が飛びそうになるがそれでも若干は体が楽になった。
自分がやりたいこと……自分がしたいこと……それは一体……
そっと体を起こし、シルフィリアは東の空を見つめた。
自分がやりたいこと……それが何かはわからないけれど……でも……とりあえず……今は……



  ※         ※          ※



耐火ローブを着ているというのに、全身の肉が焦げ付くようにジリジリジリジリと熱が伝わってくる。それほどまでに熱い。想像を絶する熱量。
その中を、頭までローブで覆いながらアリエスは走り抜ける。倉庫が特殊粘土製なこともあって、熱は貯めこまれ、内部の温度はサウナよりもずっと篭っていた。
途中何人かの取り残された作業員を救出し、壁を切り裂いて外への非常口を作りながらアリエスはひたすら奥へ進む。
「そこを右……階段を上がって上……曲がって……そう…………」
通信機から聞こえてくる指示に従いながら、アリエスはひたすら必死に走り抜ける。
最初の到達ポイントで唯一炎に包まれていない場所にて集まっていた人々を壁を切り裂いて脱出させ、次のポイントでも同じことをする。単純作業ながら火は刻一刻とアリエスの体力を削っていった。
そして、体力も限界に近づいた頃……通信機から最後の指示が聞こえる。
「坊や、次で最後よ。よく聞いて。右の通路を直進してその先の分かれ道をまた右……そのまままっすぐ行くと食料倉庫がある。そこにまだ何人かの人が取り残されて……ちょっと何?レーナルド……」
途端に通信が途絶え、しばらく無言が続く。その間も火炎はひたすらにアリエスを責める。汗がとめどなく出、喉が限りなく乾き……
もう限界かと思ったその時、やっとのことで搾り出すようなシェリルの声が聞こえた。
「…………いい?アリエス……よく聞きなさい……」
「?」
「さっき、最初に右にいけって言われた通路……あそこを左に行って10分ほど進むと、小さな部屋がある。そこに一人の女の子が閉じ込められている」
「は?」
「いい?よく聞きなさい……」



―その女の子が貴方の妹なの―



その言葉の意味がさっぱりと言っていいほど判らなかった。
なんでそんなことに!?
「なんでメルフィンがこんなことに!!」
熱せられた空気が肺を焼きそうになるのにも気を使わずアリエスは叫び、咽せ込む。
「詳しいことは状況が状況だけに言えないけど、簡単に説明する」
ある程度まとめられたシェリルの弁を、自分の頭の中で整理する。
つまりはこういうこと。
この前の蒼穹戦争。アレにおいて、勝利を確信していたキャスリーンは戦空艦に反抗的だった貴族の子息・子女を社会勉強ということで旗艦に乗せ、実際に勝利を見せて反抗する貴族を抑えこみあわよくば取り込もうと考えた。
しかし結果は惨敗。子息・子女に敗戦の記憶を植えつけては厄介だと殺害としたこともあり、狙いは空振りどころか真逆。反抗貴族のほぼ全員は、シェリル派であるグロリアーナやチェザーレに付く結果となった。さらにあのあと、敗戦の色が更に強くなったこともあり、反抗勢力の力は上がってしまった。そこで、キャスリーンが新たに考えたのが、子息・子女に今度はこの港に密輸していた今燃えてるなんらかの積荷を見せ、皇国の力を示そうとしたのではないか……というのがシェリルの見解である。
もちろんキャスリーンは一切を語っていないが、メルフィン以外の子息・子女が多く見つかっており、更にその大半がこの前の蒼穹戦争の観測デッキで敗戦を目撃した子供であるという状況から察するにその意見は大半当たっているはず。
さらに救助された子供の話を統合すると、メルフィンは最後まで民間人と同じく連れてこられた子息・子女の救助に当たっており、最後の救助者を探すために自ら燃え狂う炎の中へと飛び込んでいったらしい。
全てを聞き終えた時、アリエスの頭の中には女王をズタズタに引き裂いてやりたい衝動と妹を案ずる負の感情で一杯になった。
メルフィンはフィンハオランとして……皇国で最も栄誉ある剣の一族としての義務を果たした。だが……その結果が……
運命のイタズラという簡単な言葉では片付けられない作為すら感じる不運。
なぜなら……
彼女が居る地点は現在地から10分。間違いなく彼女を助けに言っていたら、本来救出するはずだった何人もの人たちは救出できずに死ぬことになる。
「アリエス……どっちを助けても、私は文句言わないわ。いえ、妹を助けなさい!天秤にかけること無い!助けなかったら一生後悔する!」
「シェリー様……」
なんでそんなに優しい言葉をかけてくれるんだろう……
「アリエス、いい?右に居る数人は全員あなたの知らない人だし、貴方が助けに来てくれることすら知らない。それに、今は火が回ってないみたいだからもしかしたら消火活動が成功して助かるかもしれない。でも妹ちゃんは違う。炎が回ってる場所にいるし、行くまでにも時間がかかる。命の危険性が高いの。これはいわばトリアージ。命の優先順位よ。家族とかそういうことじゃなく……」
確かにそうかもしれない。助かる可能性が高い数人と、助かる可能性がゼロに乏しいメルフィン。助けるならメルフィンだろう……でも……それでも……










「……右に行きます」










アリエスは小さな小さな声でそう宣言した。
「アリエス!あなた!」
「フィンハオランは代々騎士の一族。騎士とは剣ではありません。民を……弱者を守る盾です」
「落ち着きなさい!妹なのよ!」
「その妹も騎士の一族です。それに……ただ後悔するだけで済むというのであれば、それでいいです。俺は……一生その罪を背負って……嘆きながら生きていきますから……」
俺一人が、辛くて死にたくて悲しくて泣き続ける程度で……それで何人かの人が救えるなら……きっとそれが正解だと思いますから……
アリエスはそう言い、静かにマントをかぶり直した。
「そう……」
と短い返事だけが帰ってきた。そして迷いなく右の道へ……
ただ……同時にアリエスは感じる。炎があって良かったと……
だって……もしも炎がなかったら……顔の半分以上を埋め尽くすほどの涙が蒸発してくれなかったから。




  ※         ※          ※




熱かった。

単純な表現かも知れないが、それ以外に何も言えないぐらいに熱かった。
そんな中をひたすらに彷徨い、出口がないことを確認してから、メルフィンは静かにその場に座り込んだ。真夏の日向に放置したような大理石の床から熱がドレス挟んで尻にすら伝う。
もうダメかもしれない……家の教えを守って民間人や友人たちを避難させたはいいが……最後の最後で火に撒かれ出口を全て塞がれた……
ジリジリと肌が火傷するような温度に腕を必死に擦り、息を吸い込めば肺が焼けてしまうのではないかというほどに熱い。

ここで死ぬのか……

そう覚悟を決める時が来た。
近くにあった石像に背を預け、静かに目を閉じる。まるで火刑にでもかけられているかのような感覚だった。何も悪いことをした覚えもないのだけれど……
そうして待っている間にも屋根から萌えた木材や破片がボロボロと落ちてくる。段々と失われていく逃げ場にメルフィンは目を閉じる力を強くした。

「死にたくないな……」

一生懸命我慢して現実を受け入れようとした少女のダムが崩れ去った瞬間だった。
自然とボロボロ涙が出てきて、諦めているはずの脱出方法を考えるのに全脳細胞を使う。
あるはずもない脱出方法を考える為にすべての知識を導入する。
しかし、当然浮かぶわけがない。いかに魔法を使えるとはいえ、9歳の彼女が使えるのは火炎系統では日の付いたマッチ棒を投げつける程度の簡単なもの。この状況で役に立ちそうな水の魔法では精々お猪口一杯の量を作り出すのが精一杯だった。

ダメだ……なにも浮かばない……絶望を抱え再びうずくまったその瞬間……
メキメキという音と共についに炎による温度上昇に耐え切れなくなった周りの柱に亀裂が入りはじめたのだ。


そして……


その内の一本がついにメルフィンの方へと倒れかかる。悲鳴を上げることも忘れ、倒れてくる柱がスローモーションに見える。
やがて逃げ切れないことと死を確信し、メルフィンはギュッと目を閉じる。



しかし、何時まで経っても、想像していた感覚が訪れることはなかった。



そっと目を開けてみるとそこには……



宙空の光の中から幾重もの鎖が現れて、全ての柱に絡みつき結びつき、建物全体に蜘蛛の巣のように張り巡らされて、建物の崩壊を止めていた。そして、その先……中央ですべての鎖を手に支えているのは……そこまで見たところでメルフィンの意識はフッと途切れた。
生きてるという安心感と疲れから来るものだろうが、彼女が床に倒れこむ前にそっと彼女の体を細い腕が抱きとめた。

「外傷は無い……ただ、体の温度が少々高い…………少しシールド内の温度は下げておきましょう……」

そう呟いた声は、メルフィンの体に小さく魔術を唱え、彼女の体がすっぽり入る程の球状の魔術で覆う。そして、当たりを見回し、崩れかかった壁を見つけると……
「フェニキス……」
真っ白な巨大な鳳凰を作り出しそれを壁に向かって放った。まるで大型爆弾を投げ込んだような爆発の後には大きな風穴が天上に穿たれる。メルフィンを抱きかかえ、静かに飛び立ち、彼女は爆炎の中から外に飛び出た。
冷たい空気に真っ白な髪が暴れる。それを抑えながら、彼女は手元のカード



  ※         ※          ※



アリエスとの通信を切った直後に自体は急変した。
これだけの火災なのだから当然死者だって出る。予想はしていたがいつになっても慣れないザラついた心の閉塞感の中、突然の通信は死んだはずの隊員からのものだった。
「クラウス!貴方生きてるの!?」
しかしその叫びは虚しくしばしの無言が続いた。


「……クラウスじゃないわね……誰なの?」


問いかけに答えたのは以外すぎる人物の声。
「通信機の使い方はこれでよろしいので……」
「!?……あなた!?どうしてココに!?教会に居るはずじゃ!!」
「詳細は後ほど……今は様々な意味であまり時間がありません……彼を……アリエスを助ける方法をお教え願いたい……」
アリエスが遅れてきたことや、彼女がここにいる事などから考えても大体の予想がつく。だが、彼女の言うとおり、時間がないのも事実……それに……
ひとつ言える……彼女ならば助けられる……

「……ふたつ聞きたい……炎の中に飛び込んで女の子一人を救出することはできる?」

またしばし無言……そして、得られた解答は……

「……薬の効果が切れるまでの時間を考慮して……15分程度で行ける場所なんとか……」
「じゃあ、お願い。今使ってるカードに地図と場所情報を送るから、そこに居る」
「わかりました。して、もうひとつは」
「…………アンタがアリエスを助ける理由は……」
「……………………なんとなくそうしたいから……では不満ですか……」
「…………いえ……今はそれでいい……お互い時間がない……頼んだ……通信コード名は……えっと……」
「アミュレットで……」
「了解……アミュレットに通達。これから、要救助者の連絡リストを送信する。受診コードはM1848」
「……受信しました」

カードからの通信の音が切れ、空に白い蛍のような光が見えた。




  ※         ※          ※




「こちらアミュレット。任務完了……要救助者は軽度の火傷を追っているものの、命に別条なし……これより救護班への引渡しを行います」
カードからの通信にシェリルはホッと胸を撫で下ろす。
「了解…本当にありがとう……あなたの方は?体調の方は大丈夫?」
「…………あまり良いとは言えませんが……動けない程ではありません」
そもそも致死量ギリギリの睡眠薬を高濃度な麻薬の代用品として使用しなければいけない少女の体調が良好なはずがない。だが……状況が状況。今は使えるものはなんでも使わなければならない……
「無理は禁物よ……ただ、できれば消火活動の方でも手が足りてない……もしまだ大丈夫なようならそっちも手伝って欲しいんだけど……」
「炎を……」
「もちろん、あなたの体調を一番重要視して考えなさい。命令じゃなくってお願いだから……」
「…………炎を全部消せばよろしいのですね……」
「そう……だけど……」
「任務了解……」
通信が切れ、空高く白い蛍が舞った……しかし……どうするつもりなのか……まさか天候を操って、雨を降らせるとか……そんな幻想を抱いてみたり……




※         ※          ※



正直な話、限界は近かった……。過度の睡眠薬投与で頭はクラクラするし、目も霞む。
呼吸も落ち着かない上に薬の効き目が切れかかっていることもあって、頭痛と吐き気が同時に襲ってくる。
だが、そもそも体調不良は圧倒的魔力量を制御し、魔術使用時のカオス理論が絡むような複雑な分子計算を瞬時に行う為、脳がオーバーロードして起こる現象。すなわち理論だけで言えば、我慢さえすれば魔術を使うことは出来る。
メルフィンを抱えたまま高く舞い上がり、炎上している地域全体が見渡せる高度まで上昇する。火元の上空に居るせいで、とてつもない熱気が髪を揺らした。
大きく一度深呼吸を置いて、シルフィリアは左目に意識を集中させた。何でも見える目、何でも見せられる目……ただ、使うと言葉に出来ないぐらいの痛みを伴うので、あまり長くは使えない。使うなら一瞬。一瞬で全てスキャンする。
一瞬の痛みに耐え、建物全体をスキャンし、どこに逃げ遅れた人間が居て、どこの炎の勢いが強いのかを調査して、すべての状況を把握する。
そして……
「使えるかどうかわかりませんが……無いよりマシですよね……」
もう一度大きく呼吸して、ゆっくりと先ほど拾った杖を構える。

それにしてもこの体調…………呪文を噛まぬように注意しなければ……


『闇と氷雪と白薔薇の女王 彼の白き翼にて眼下の大地を白銀に染めよ 終わりなく白き地の果て 悠久の時の果て…… 永久(とこしえ)の闇に眠れ……』

なんとか噛まずに言えた。あとは呪文を唱えるのみ……
有効範囲や魔力濃度の計算で頭が割れるように痛いが、それでも我慢して、シルフィリアは最後の呪文部分を唱えた。


『氷帝の牢獄(グラシエル・バスチーユ)』


その瞬間……その場に居た誰もが寒さを感じた……
真冬に裸で外に放り出されたような寒さ……


そして、次の瞬間には……全てが終わっていた。

バキバキと音を立てながら根元から凍りついていく建物。炎も消火に使われ蒸発していく水蒸気も巻き上がる煙も……形なきものが形を与えられて凍りついていく……。

「これが……白孔雀の力かよ……」

誰かがそんなことを呟いた。
豪炎は嘘のように炎も煙も全てがそのままの状態で静止した。
正しく言えば炎も煙全てが全てそのまま凍り付いたと言うのが正しい……

それを確認すると、シルフィリアも静かにシェリルの元へと羽を進めた。



  ※         ※          ※



「お疲れ様……」
メルフィンを引き渡したのと同時に、シェリルからねぎらいの言葉をもらい、シルフィリアはそのまま地に膝を付いた。
「ちょ……大丈夫!?」
差し伸べられる手を差止め、シルフィリアはゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫です……」
乱暴にポケットに手を突っ込んで薬瓶を取り出し、ガラガラと中身を嚥下する。
ゴホゴホと咳き込んだ後、薬の効き目でフラフラと狂ったように踊り、やがて倒れそうになったところを、後ろからそっと支えられた。
「シルフィリア……ありがとう…………ありがとう……」
後ろから掠れたで何度も何度も謝辞を述べる声に振り返ると、こぼれた彼の涙が静かに頬を伝った……
ハァと溜息を一つついて、シルフィリアは静かに目を閉じた。安堵というのもあるが、それ以上に立っていられない程に辛くて……
「安心しなさい。すぐに医者に連れてってあげるから……闇だけどね……でも、気絶剃る前に聞かせなさい……それで……あなたこれからどうするの?」
「どうするの……とは?」
「大体の事情は想像できる……帝国に帰るお膳立てまでそこの坊やにしてもらってそれを蹴ったんだから、それ相応の考えがあってのことでしょう?」
「………………」
やや言い淀みつつ、なんとか言葉を絞り出すようにシルフィリアは語る。


「わからないから……です……」


虚ろな双眸で宙空を眺めながら、シルフィリアは辛そうに身を捩った。
「今まで殺して壊した意味も……自分が誰なのかも……これからどうしたいのかも……全部全部わからないから……」
生物的に死は怖いものでなければならないはず。しかし、自分は死すら怖くない……生きてる目的がないから……何がしたいのか、何の為に生きたいのか、未来も見えないから……
「それに……彼に言われた通り、帝国領の研究所跡地から薬を見つけることは確かにできるかもしれません……しかし……それが延命に繋がる確証はありません……」
そもそも、理論的にいえば普通の人間の体を遺伝子レベルで無理矢理強化して、その副作用を投薬で無理矢理押さえ込んでいるだけ……ならば当然犠牲にするのは寿命だろう……文面上は殺されたり病気にならない限りは不老不死らしいが、そんな確証はどこにもない。大きな時限爆弾付きの体……
それに、現在の禁断症状だけでも正直生きるのに絶望するのには十分な苦しさ……正直ここで命が終われば、どんなに楽だろうか……何度もそう思った……
でも……

「終わらせてしまえば良い……というわけではありません……逃げてしまえばいい……というわけではもっとありません……」

どちらも今の自分には最高のご褒美とすら思える選択肢……だけど……もしこのどちらかを選んだら……自分は一体……
「だから……どうせ蝋燭の炎のように何時消えるかもしれぬ命だと言うのなら……全てを知って死にたい……本当の自分を知るために……今までの自分を終わらせたい……」
「それが……あなたの願い?」
小さく頷いたシルフィリアの目尻には小さな涙が浮かんでいた。それを見て、シェリルはそっと服の袖でそれを拭う。ただでさえ麻薬の禁断症状が出ている中で、さらに苦しんで……これほどまでに悩んで……そしてやっと導き出した答え……
ならば叶えないわけにはいかない……
「わかった……体調の方は?少しは眠れそう?」
先程よりもさらに小さく頷いてシルフィリアはクマだらけになっていた目を閉じた。大きく息を吐き、そのまままるで死んだかのように動かなくなる。
「アリエス……この子の願い……あんたはどうしたい?」
眠ったままの妹を抱きしめながら、アリエスは口元を少し緩ませる。
「もちろん、叶えてあげたいです」

「…………わかった……行きましょう……帝国に……」

白孔雀としてではない……一人の少女としての願い……シェリルはそう受け取った。
淀んだ空気から抜け出せるように……自分を取り戻したいという静かな願い。
ならば自分に出来ることは、鮮やかに咲き誇れるように背中を押すことだけ……
それに……
シロン・エールフロージェとカトレア・キャビレット・リ・フェルトマリア……
この2人が幻影の白孔雀ことシルフィリアと関係してることはまず間違いない。


戦争の発端ブルー・ル・マリア。
アリエスの友達シロンの失踪。
帝国最強の兵器幻影の白孔雀。


この3つを一本の糸で繋ぐため……
最後の戦が始まる……



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