第一章(前半)
―1―
そこは地獄だった。
銃弾が飛び交い、人が人を殺し、人が人に殺される、そんな世界(ばしょ)。
そこでは、力こそがすべてだった。力こそが正義の証明だった。自らの正しさを示すため、誰もが銃を手に戦場を駆け巡った。
――本当に?
大地に、醜き人間の血が広がる。
――本当に?
広がった血だまりは大地に染み渡り、世界を更に汚(けが)してゆく。
母なる海。父なる大地。それらをどこまでも、どこまでも醜い色に染めてゆく。
それは、彼らが正義(ただしさ)を示そうとしたがゆえに。
――本当に? 本当に彼らは、そのために戦ったのか? それは半ば、惰性で行われていただけではなかったか?
やはり、そこは地獄だった。
正義など存在しない、地獄だった。
誰しもが醜く、誰しもが人を殺していく。
――なぜ。
そのような疑問など抱かずに。
ただ、それだけを正義と信じて。
罪なき者が罪なき者を殺め、罪人(ひとごろし)へと堕ちてゆく。
――なぜ争うのか。なぜ殺さねばならないのか。
私の抱いたその疑問に、敵がいるから争うのだ、殺されるから殺さねばならないのだと返答し。
彼らは、自分と同じ人間を殺し、罪人(ひとごろし)へと堕ちていった。
そして、それは私とて同じこと。
いくら疑問を抱こうとも、人を殺さずに生きることなど、この戦場ではできるはずもない。
すべての者が疑問を抱かずに戦っていたとも思わない。
しかし、それでも――。
やがて、雨が降り、すべての醜きものを清め、洗い流していった。
しかし、私の中の疑問は流れず残る。
――誰でもいい。どうか、この疑問に解答を。
なぜ、人は人を殺すのか。
なぜ、人は争うのか。争わずにはいられないのか。
争うことなく、皆で寄り添い合えはしないのか。
『あのような回答』など、私は要らない。
どうか、私の問いに『解答』を――。
―2―
「――また、その夢?」
私立彩桜(さいおう)学園高校、二年二組の教室で。
わずかに目を見開きながら、俺――広瀬大河(ひろせ たいが)の向かいに座る少女が小首を傾げた。肩の少し上あたりで切り揃えられている黒髪がわずかに揺れる。
俺はあくび混じりにうなずいた。
「ああ、まただよ。おかげであまり眠った気がしないんだ。しっかり寝てはいるのに、いまひとつ疲れがとれなくってさ」
まったく、やれやれだ。
兵士として戦争に駆り出され、その戦場で最期の瞬間(とき)を迎えた気高き青年。そんな人物の思いを、願いを、俺は一年ほど前から夢の中で見るようになった。
回数のほうは、月に二度。俺が憶えている限りでは、それより多かったことも少なかったこともない。ある意味、これは幸いだといえた。だって、あんな密度が高い上に肩が凝りそうな夢を週に何度も見ていたら、精神的な疲労が溜まってどうにかなってしまうに決まってる。
夢というものは、心も身体も無防備な状態になった人に、見知らぬ他人が送ってくるメッセージなんだ、という話をどこかで聞いた覚えがある。しかし俺だってもう高校二年生だ。そんなことを頭から信じてしまうほど子供じゃない。
……ないはずなのだけれど。正直、リアルすぎるんだよなぁ、あの夢。おまけに月の初めと半ばに必ず見るものだから、『あ、きっと今日は例の夢を見ることになるな』と、ベッドに入る前に予想がつくくらいにもなっているし。
正直、夢の内容を鑑みれば、この『月の初めと半ばに』というのは、まるでこちらの精神を気遣ってくれているようにも感じられる。
条件がこうも整ってしまうと、あの夢を介して誰かが俺に助けを求めているのでは、というようなオカルトじみた妄想を抱いても別に不自然じゃないんじゃないかな、とも思ってしまうのだ。幸い、目の前にいる制服姿の少女――クラスメイトである岡本千夏(おかもと ちなつ)も同じ解釈をし、理解を示してくれている。
だから、
「――私の問いに『解答』を、と言われてもなぁ……」
などという呟きを漏らしても、精神異常者を見るような目では見られない。いや、それどころか俺よりも真剣な表情になってくれるほどだ。こんなとき、俺は恵まれてるなぁ、と思う。
二人して、うんうんと唸っていると、教室の入り口から担任が姿を現した。チャイムはまだ鳴っていないのにフライングだ。そんな下らないことを思っている間に鳴るチャイム。
「さて、あたしはそろそろ戻るね」
千夏が立ち上がり、自分の席へと歩いていく。今年も同じクラスになれたクラスメイトの背中を俺はボンヤリと見送った。
岡本千夏は俺の彼女だ。つまり、俺とは恋人同士という関係。毎日のように顔を合わせているものだから、甘い言葉なんて囁いたこともないし、会話のノリは完全に友達同士のそれだけど、それでも恋人同士なのだ。告白したのは俺からで、去年の十二月末のこと。
そのときなんて言ったのかは……まあ、もう忘れたということで。いや、本当、勘弁してください。あのときのことを思い出そうものなら、恥ずかしさで死んでしまう。忘却というのは、人間が採る自己防衛の手段のひとつなのです。
それはともかく、中肉中背、これといった目立ったところのない凡庸な俺の彼女だから、千夏も決して『美人』とかいう類の人種ではない。活発な性格で、どこか幼さを残した顔立ちはしているが、すれ違った人が知らず振り返るほどの『可愛さ』は宿していないのだ。つまり、実に平均的なレベルの女子。言えば怒られるだろうから、絶対に口にはしないけど。
でも、それでいいじゃないか。分相応、万歳。凡人同士で付き合うのが、きっと一番幸せだ。
まあ、とはいっても。
実は彼女、ある一点においてのみ、『天才』と呼ばれる人種だったりもするんだけどさ。普段の言動が完全に凡人のそれだから、ついつい忘れがちになるけれど。
ホームルームが終わり、俺を含む二年二組の生徒は校庭へと向かっていた。
今日は一学期の一番最初の日、始業式だ。なので、校長先生の長い話が憂鬱ではあるものの、気が重くなるようなことはひとつもない。
むしろ、とある理由から、今日の俺はいつもより浮き足立ってすらいた。
なぜかというと、
「守(まもる)、今日からここの生徒になるんだよね。部活、どこにするんだろう?」
まあ、そういうわけだ。まさしく、隣に並んできた千夏が言った通り。
守というのは、口が悪くて生意気な俺の弟のことだ。あいつがここに入学するのは、ここに受かったと聞いたときからわかっていたことだし、昔みたいに『兄ちゃん』なんて呼んで慕ってくれるほど、我が弟は可愛い奴でもない。……千夏のことは、いまも『千夏姉ちゃん』って呼んでるのに、なぜこうなったのか。
それでも、やっぱり心躍るもんだよ、身内が同じ学校に通うようになるっていうのはさ。共通の話題が増えるかもしれないし、学校行事で協力しあう場面だって出てくるかもしれない。……それに、代わりに昼食を買って来させることだってできるだろう。うん、上級生の分までパンを買って来たりするのは、昔からある下級生の義務みたいなもんだ。かくいう俺だってそういう経験は積んできている。
まあ、あいつにだって部活があるだろうから、必要以上に拘束しようとは、もちろん思わないけど。
しかし、部活か。あいつだったら……
「多分、野球部に入ると思うぞ? 小学生の頃から、ずっと野球を続けてたからさ。密かに甲子園狙ってたりして」
「あ、やっぱり? 甲子園云々はともかく、大河は剣道部で守は野球部か。うんうん、健康的でよろしい!」
「そういうお前は美術部だな」
「うん! でも外に出てスケッチをすることも多いからね。そこそこ健康的といえるんじゃないかな」
「……部室に篭ってイーゼルと向き合ってるところしか見た覚えないんだけど? 俺」
「あぅ……。そ、それもそれでよろしい!」
「いや、あまりよろしくはないだろう。そして、それ以上に。お前は食生活を改善すべきだと思う」
千夏は大がつくほどのジャンクフード好きだ。人間が生きるために酸素を求めるのと同じ感覚で、こいつはハンバーガーとかポテトとかを摂取しているのだ。
「そ、それはほら! ジャンクフードはあたしの生きる糧だから!」
「それでも、三食すべてをハンバーガーで済ますのだけはやめてくれ……」
「してないよ! そんなことは一度も!」
「お前の場合、やりかねないんだよ! 去年、絵のコンクールで賞をとったとき、その賞金をすべてハンバーガーにつぎ込もうとしていたこと、俺は忘れてないぞ!」
「……未遂で終わったじゃん。貯金しておくからって、賞金の大部分はお父さんに取り上げられちゃって、手元にはわずかなお金しか残らなかったし」
「それでも一万はあったよな!? それを全部ハンバーガーにつぎ込んだじゃないか! それに未遂だって立派な犯行だろう! 殺人未遂事件をお前は『未遂だからいいじゃん』で済ませられるのか!?」
と、そこまで大声でまくし立てたときだった。
「広瀬、岡本、うるさいぞー」
『ごめんなさい』
怒気の篭ってないものではあったけど、担任からの叱責を受け、まったく同時に謝る俺たち。
前述したとおり、恋人同士とはいっても普段の会話はこんな感じだ。言葉だけを抜き出してみれば、険悪とも思われかねない、けれどお互い、声音に笑みが含まれている大声での応酬(おうしゅう)。本当、甘い言葉なんて欠片もない。
でも、お互いが自然でいられるのなら、それが一番いいのだと俺は思う。
ふと意識を外に向けてみれば、二年二組一行はすでに一階の通路に差しかかっていた。風を遮る壁はなく、微かに頬をくすぐる感覚が気持ちいい。敷地内のあちこちに咲き誇っている桜から、風に乗って花びらが飛んでくる。
彩桜学園。
桜が彩る学園。
新入生を歓迎するように立ち並ぶ、満開の桜並木。やがては役割を終えて散っていってしまうけれど、その散り様すらもいさぎよい。
春にのみ見られるこの光景こそが、この学校の名前の由来だった。
風に乗って運ばれてきた桜の花びらを手の中で弄びながら、俺は千夏のほうに顔を向ける。なにを言うかなんて、決まっていた。
「とにかくさ、俺が弁当作ってこなくても、昼食はちゃんと購買で買って食べてくれよ。もちろん、ジャンクフード以外のものを」
さっきまでの話を、蒸し返す!
「そりゃ、弁当作るのは別に嫌じゃないけどさ。俺、料理好きなほうだし。でも、やっぱり毎日は大変だって。世のお母様方の苦労がこの歳でわかってしまいかねないよ……」
もうおわかりのこととは思うが。
こいつ、俺が弁当を作ってこない日は必ず昼食をハンバーガーで済まそうとするのだ。さすがにそれは阻止せねばなるまいと、できる限り弁当を作るようにはしているのだが、それでも当然、作れない日は出てくる。
それにこいつ、俺が弁当を作ってこられない日を心待ちにしているところも見受けられる。まったく、この恩知らずめ。……しかし、それがわかっていてもなお、弁当作ってやんなきゃなぁ、みたいなことを思ってしまうのだから、惚れた側というのは本当に弱いものだと痛感させられる。
俺の言葉に言い返す術を持たず、そっぽを向いて調子外れな口笛を吹き始める千夏。それを横目でジトッと眺めつつ、俺は深い深いため息を漏らすのだった。
―3―
駅前は、いつだって騒がしい音に満ちてやがる。
ミュージシャンを目指す人たちがストリートライブを開催してたり、それを見に来ている人たちが歓声をあげてたり、ゲームセンター付近からバカみたいな笑い声が聞こえてきたり、ぺちゃくちゃと大声でしゃべっている女子高生があちこちにたむろしていたりと、騒がしくしている理由は人それぞれだけど、結果として駅前はやむことのない喧騒に包まれている。
それに対して、良いとか悪いとか言うつもりはない。僕自身、ゲームセンターでちょっと遊んで帰ろうと、ここにやってきたんだし。
始業式と、今日を締めくくるホームルームが終わり、あとは校内に残るのも自由、そのまま帰宅するのも自由という段になってすぐ。僕は逃げるようにして――というか、絶対に捕まるまいと校門に向かってダッシュ、その勢いのままにここまで走ってきた。興味のあった野球部の勧誘の声さえもふり払って。
まったく、ウチの兄貴は人の心の機微(きび)に疎くて困る。同じ学校に通う兄弟が一緒に帰宅なんて、同じクラスの奴に見られたら恥ずかしくて仕方ねーだろうよ。恥ずかしさを抜きにしたって、入学直後っていう、第一印象には気を配らなきゃいけない時期なんだから。
だったら入学式直後に制服姿のまま、ひとりでゲームセンターに寄るのはどうなのよって?
……いいじゃねーか、別に。他人をムリヤリ連れてきてるわけでも、騒ぎを起こすつもりもないんだから。
西の空が赤く染まる頃、騒ぎをなにひとつ起こさずにゲームセンターから出ると、茜色に染まる駅前の中、少し離れた喫茶店の近くに、見覚えのある小柄な女子の姿があった。着ているのは灰色を基調としたブレザーとミニスカート。僕が今日から通うことになった彩桜学園で採用されている女子用の制服だ。
名前は確か、歌恋(かれん)といったはず。珍しい字面をしているな、と思った覚えがあるから間違いないだろう。あいにくと苗字のほうは憶えていないが、確か、そっちのほうは割と平凡だったような……。
彼女を初めて見かけたのは今日の午前中、入学式でのことだ。
夕日と同じ色をしたセミロングの髪と、整った顔立ちが嫌でも印象に残る少女だった。
その彼女が心なしか少し困ったような表情をして、誰かと向き合っていた。
まさかナンパでもされてんのか? と一瞬だけ思ったが、どうも違うようだ。だって、相手は四十代前半のおばさんだし。
近づいて聞き耳を立ててみる。聞こえてきたのは「それは……」とか「でも、また……」といった、彼女の困惑が色濃く表れている言葉。
……これは、ちょっと割り込んで流れを変えてやったほうがいいだろうか? もちろん、それで流れがどう変わるのか、なんて僕には想像もつかないわけだけど。
少々唐突になってしまうかもしれないが、僕は『他人のことには首を突っ込まない』ようにして生きている。誰だってそうだろう? 違うと言える人間は、間違いなく少数派のはずだ。そういった意味では、このとき僕がとった行動は、不思議に思われて当然だと思う。実際、当事者である僕にだって、彼女に関わりたいと思った理由は説明できないんだから。
もちろん、入学式で見たときに一目惚れしてしまった、という可能性もなくはないけど、確率は低いと思う。そりゃ、ちょっと話してみたいとは思っていたけど、そんなのクラスの男子生徒のほぼ全員が考えていたことだろう。それほどに、彼女の容姿は人の目を惹きつけるのだから。
結局、僕は自分でもよくわからない衝動に突き動かされる形で、二人の間に割って入った。
「あの、ちょっといいっすか?」
怪訝そうな表情を向けてくる二人。しかし、変化はすぐに訪れる。
「――あ……」
歌恋はそれとすぐわかるくらいに困惑の色を深め、おばさんのほうは「あらあら」と笑顔を浮かべた。
……なんだよ! あからさまに困った顔しやがって! 僕が話しかけたの、そんなに迷惑だったのかよ!
やっぱり、いつものとおり無視して帰路に着くべきだったな。
それにしても、歌恋の反応は……ショックではあったけど、まだいいとして、だ。このおばさんはなんなんだ? 若干、素行不良気味の見知らぬ高校生男子にいきなり割って入られて、笑顔を浮かべる? それも、歓迎の意を示してはいるものの、決して気持ちよくはない笑顔を浮かべる?
これは、はっきり言って異常じゃないか? よくよく見てみれば、おばさんの目は爛々と輝いており、どこか、獲物を前にした肉食獣を連想してしまうというか……。
「歌恋ちゃん、この子はお友達? あ、それとも彼氏?」
舌なめずりでもしそうな――あり得ないことだと思うけど、そう予感させる笑みを浮かべたままで、おばさんが歌恋に問いかける。当然、彼女は慌てて否定。
「ち、違いますよ! えっと、彼の着ている制服は、私が今日から通うことになった高校のものですから、同じ学校に属している方だとは思いますけど」
……そっか。一応は同じクラスなんだけど、気づかれてなかったか。
彼女、空き時間ができる度に何人もの男子から話しかけられていたし、僕はそれを遠目に見ていただけだったから当然といえば当然なのだけど、なぜだろう、微妙にショックだ。……あ、このおばさんに『彼氏』と間違われた直後だからショックだったのか? うんうん、きっとそうだ。そうに違いない。
気をとりなおし、おばさんのほうを向く。しかし、なんと言って続けたものか。とりあえず道でも訊いてみるか? ここらへんの地理には詳しいけど。
「あの――」
「あ、こんなところでいつまでも立ち話させてごめんなさいね」
早々に遮られた。ある意味では助かったとも言えるのだけど、僕はこのおばさんに、どうもいい印象を持てない。蜘蛛っぽいというか、とにかく網にかかった獲物を逃がすまいとしている感が伝わってくる。
「そろそろ行きましょう、歌恋ちゃん。うちの人も待ちくたびれているだろうし。もちろん、そちらの貴方も歓迎するわよ」
更には、歓迎するときたもんだ。まだ名乗ってもいない素行不良気味の高校生を。大体、知らない人についていってはいけませんって学校で習わなかったのかよ、あんた。
僕の胡散臭そうな目にようやく気づいたのか、はたまた気づいてはいたものの放置していたのか、おばさんはようやく自分の名を名乗った。
「そういえば自己紹介を忘れていたわね。私は歌恋ちゃんのお母さんの友達で、飯田恭子(いいだ きょうこ)っていうの。よろしくね」
「……どうも」
とりあえず、歌恋とこのおばさんは『見知らぬ他人』ではないらしい。もちろん、だからといって信用できる人だとは限らないので、僕のほうは名乗らないでおく。
そのことに気分を害した様子はなく、おばさんは僕たちを先導するように前に立って歩き出した。とりあえずは従う僕と歌恋。
一歩目を踏み出すと同時、隣に並んだ彼女の顔を覗き込んでみたけれど、歌恋は変わらず困ったような表情を浮かべているままだった。
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