闇より生まれし絶対悪
著者:新夜詩希


「ア……が……」



 闇は濃密、宵は深まり、鮮烈な血の香りに彩られる。それはまるで産まれ落ちた胎児のよう。紅き月より産まれ出たるは災厄の具現。否、再臨という表現の方が正しいか。いずれにしろ、常世全ての命運を握る王の帰還である事は疑いようがない。

「は……ア……」

 ひゅーひゅーと空気の抜けるような小さな音が幽かに聞こえる。喉を潰され、網膜を焼かれ、鼓膜は破れ、四肢はもがれ、息も絶え絶えとなり、床に転がされているネクロガリア王の姿は正に、生き人形と言うよりも達磨のそれである。自力で立ち上がる為の手段も思考もない。人間としての尊厳を悉く蹂躙され、最早息があるだけの『物体』に過ぎなかった。

「御気分は如何でしょう?」

 そんな惨状を尻目に、黒ローブの魔族・饒舌なザリチュは恭しく片膝を付く。あの不遜な魔族であるザリチュにして、この敬意。自身より頭数個分も矮躯であるにも関わらず、その存在よりも更に頭(こうべ)を下げている。それは相方の寡黙なタルウィも同様。声さえ発しないものの、ザリチュと同じく最大限の畏敬を示す所作であった。

「うむ、悪くはない。疎の方ら、楽にして良いぞ」

「お気遣い、痛み入ります。ですが我らのような下賤者の事などお気になさらずとも結構でございます。どうか何なりと御尊命の程を」

「そういう訳にはいかぬ。余(よ)がこうして現界せしめたのもうぬらの働きによるものであろう? 礼を言う」

「おお……! 過分に勿体無きお言葉……! 身に余る光栄にございます……!!」

「…………有り難き幸せ」

 ザリチュとタルウィは床に頭を擦り付けんが程に躯を曲げる。小刻みに震えているのは目の前の存在の圧倒的な威圧感に恐怖している訳ではなく、全身を包む歓喜と達成感。それもその筈、永劫に渡る魔族の宿願を自分達の手で果たせたのだ。この瞬間を歓喜せずに何を是とするか。
 祭壇部屋中央に置かれていた得体の知れない大釜は見るも無惨に砕け散り、その中身は全て蒸発し、紫色の濃霧となって室内を覆っている。周囲に得も言われぬ悪臭を拡散し、とても人間が居られる空間ではない。

 ……その空間の中心に、『ソレ』は存在した。ザリチュやタルウィのように虚ろな存在ではない。この世のあらゆるモノよりも明確な存在感を放つ『ソレ』は、見た目ではなく感覚で『人在らざるモノ』である事が分かる。そも、見た目だけの事を言えば、確かにこの空間・事象に於いてあまりにそぐわない存在ではあるが、『人在らざるモノ』であるようには到底見えない。
 魔を象徴するかのような漆黒の髪は長く、足下どころか床に引き擦る程。一糸纏わぬ肌は上質の絹のようにきめ細かく、起伏に乏しい肢体は正に人形のよう。造形美に優れた顔立ちは見方によってはこの存在と対を成す『天使』にすら喩えられるだろう。しかしその表情が、見る者を魅了するような輝きを放つ事など有ろう筈もない。

「ア…………」

 一方、床に打ち棄てられ、身動きすら取れないネクロガリア王は思う。自分は騙されたのか。網膜を焼かれ、最早光を感じる事さえ出来なくなった眼では改めて確認する事は叶わないが、最後に見たあの存在の姿形は『少女』のそれだった。この地に伝わる『伝説の悪魔神』は山をも越える巨大さ、天を裂き大地を割る程の力を持ち、この世のあらゆる悪を体現すると聞かされて来た。……ところがどうだ、あの存在はそれとはまるで真逆。人間で言えば6〜7歳程度の、脆く弱々しい『少女』にしか見えなかった。
 一縷の望みを掛け、儀式に臨んだ。信頼していた臣下を犠牲にして、教えられた通り言霊を込めて呪文を詠んだ。そして……異変は唐突に訪れる。呪文を詠み終えると大釜が激しく蠕動。部屋全体が歓喜に打ち震えるような波動に飲み込まれる。やがてその波動は収束し、闇色の光となって押し寄せた。その凄まじいまでの衝撃で大釜は砕け散り、最も近くにいたネクロガリア王は網膜を焼かれ喉を潰され鼓膜を破られ四肢を引き千切られ、部屋の隅まで弾き跳ばされた。あの衝撃の中では息があっただけでも奇跡と言える。それほどの惨事であった。
 ……しかし、それだけの代償を払って出現したのは、想像上の悪魔神とは似ても似つかぬ『少女』だった。儀式は失敗だったのか、それとも……あの『少女』が本当に伝説の悪魔神なのか。目が見えず、耳も聞こえず、身動きすら取れない今となっては確かめようもない。ただ一つ言える事は、自らの選択によってこの結末が導き出された。それだけは間違いないのである。

「い……ギ……」

 最早何も出来ない自分のふがいなさに臍を咬む。人間としての機能が刻一刻と失われているのか、涙を流す事さえ、嗚咽を漏らす事さえ出来ない。彼はただ、国を立て直したかっただけ。国王として持ち得る最小限の願いに縋っただけの事。それがこのような結果になろうとは。何処で間違ってしまったのか、自分はどのような道を選べば良かったのか。大臣や兵隊長の反対に耳を貸していれば、黒ローブ達の甘言に耳を傾けていなければ。疑問と後悔が渦巻き、野心などとうに吹き飛んでしまった。

「オ……ご……」

 自らの死期を悟る。今正に消えんとしているか細い命の灯火、それすら吹き消さんと絶望や悔恨が押し寄せる。何も成せなかった、それどころか世界全土を危機に晒してしまうかも知れない恐怖。徐々に遠のく意識の中で、死による贖罪だけが彼の救いだった。しかし……

「おーっと、まだオネンネにゃ早ェぜ。アンタにはまだ死んでもらう訳には行かねえんだなコレが」

「が……ギ……!?」

 唐突に頭を掴み上げられる。無くなった筈の痛覚が蘇り、否応なしにまだ生きている事を実感させられた。ザリチュは物とも思わぬ軽薄さでネクロガリア王を持ち上げ、『少女』の前に引き擦り出す。

「×××・×××様はまだ完全に復活した訳じゃねえ。この世との繋がりが薄く、ただ『召喚』されただけに過ぎねえからな。存在を維持するにゃ地脈からマナを吸い上げる媒介が必要だ。供給パスはこっちで固定するが、媒介に成り得るのは直接的に復活させたアンタだけだ。つーワケで、まだアンタに死んでもらっちゃ困るのよ。心配すんな、アンタはただ何もせずに座ってりゃいい」

「あ……ウ……」

「……ってもう殆ど聞こえてねえか。まあいいや、タルウィ、準備」

「…………分かった」

 再び薄れ往く意識の中で、ネクロガリア王は見た。眼は見えない筈だが、何故か目の前の少女が薄く嗤っている様を。そしてネクロガリア王は聞いた。耳も聞こえない筈だが、ザリチュが呼んだ少女の名前だけは何故か明確に聞き取れた。



 それは神代の頃に存在したとお伽話の中で聞いた伝説の悪魔神の名と同じ。あらゆる凶荒を孕んだような禍々しい不和の音。響きに色彩があるのなら、それは紛う事なく単一の暗黒だろう。悪と魔に祝福された御名は人の善に罰を与え、人の咎に狂喜を与え、人の業を貶める。

 その名を『アンラ・マンユ』。《闇より生まれし絶対悪》と冠される悪の祖の名である―――――







 ―――同時刻。

「はっ……はっ……はっ……!」

 深夜の街道に一つの小さな影が走る。凶兆に急き立てられるように、息を切らして出来る限りの速度で走っていた。

「は……ぁぁぁぁ…………」

 しかしそう長くは続かない。足を止めて大きく息をついた。何しろ『彼女』は魔力持ち。体内のオドが地表のマナに引き寄せられてしまい、基礎体力は常人の半分程度である。目的地へ一刻も早く辿り着かなければならないが、倒れてしまっては元も子もない。従ってこのように幾度となく休憩を余儀なくされる。

「早く……早く行かないと……」

 それでも『彼女』は先を急ぐ。足が棒になろうと、心肺が悲鳴を上げようと、急がねばならない理由がある。今、事の重大さを理解している、否、感じているのは世界でも『彼女』を含め数人しかいない。『彼女』はそれを然るべき人物達に伝え説く役割があるのだ。

「ああん、もう、魔力がこんなに邪魔だと思った事はないわ……! そもそもキメラの翼さえ切らしてなかったらこんな面倒な事しなくて済んだのに……!」

 悪態を吐きながらも足を進める。辛さに蓋をして、疲労困憊の身体を紛らわせた。刻限は徐々に近付いている。運命の扉はもう開かれてしまったのだ。最早一刻の猶予も許されない。それは決して『彼女』だけの話に留まらず、この世に暮らす全ての生物に言える事なのかも知れない。遠からず訪れる破滅の足音を予感しながら、『彼女』―――レーベの占い師バーバラは王都アリアハンへの道を走る。



 闇夜に浮かぶ紅い月だけが、その行く末を予見しているかのように嘲笑っていた―――――



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